ねずみのすもう

精神科医のねずみ

中島みゆき考その1 「アザミ嬢のララバイ」

ツイッターでたびたび中島みゆき(1952~)に言及しているが、つい5年前まで彼女の作品はよく知らなかった。

野太い声で歌うなんか怖い人という先入観があったし(失礼)、たまにファンだと公言するひとに出会うと妙にめんどくさい人だったりした。いまや自分がそうなってしまったが。

 

中島が2002年の紅白歌合戦に初出場し、黒部ダムから中継で「地上の星」を歌ったときわたしはまだ高校生だった。母が「中島みゆきって若いころより今の方が綺麗になったよね」とボソっと呟いたのを記憶している。

 

ん?えーと、「時代は回る」の人だったかしら。安達祐実の「家なき子」のテーマソングもこの人だったっけ。たしかに50歳のわりには若く見えるなあ。天下の大中島の偉大さを、ほんの小僧だったわたしに理解できるはずもなかった。

 

その後大学に入って、暇なときネットを観ていると、爆笑系flash動画(懐かしい!!)のバックミュージックとしてよく「地上の星」が使われていた。このころは、チー太郎という未熟な個体の内面において、中島みゆきは完全に「ネタ枠」であった。

 

しかし、自分のことをよく知らない世代に対してもまず「ネタ枠」として存在を植え付けるのが中島の戦略と見える。知らず知らずのうちに彼女の存在は、バクテリアのようにわたしの内面を浸蝕していった。同世代のユーミン竹内まりやのポップ感とは一線を画した、「なにか違う」感じ。とにかく頭の隅に引っかかって気になる存在ではあり続けたのである。

 

そうこうするうち、わたしは社会人になり、家庭も持ったりして年々ライフステージは変わっていった。

いつしか20代も終わりにさしかかっていた。抱える課題の種類が増える。医者の不養生とはよくいったもので、精神科医でありながら自らがだんだん病んできた。以前は軽く受け流していた仕事の些細なトラブルが、確実にダメージとして蓄積するようになっていった。

春日武彦先生は「幸福論」のなかで、「人間は精神を病むとミニチュア志向になる」と書いている。たしかに人間、精神的に追いつめられると、可能な限り外部との接触を減らして自分の世界に籠ろうとするのである。

 

5年前の今頃は、ひたすらイヤホンを使って大音量でバッハの「無伴奏ヴァイオリン」などを聴いて放心するほかはネットを観ていた。

このころ楽しみにしていたのは、ネット編集者の中川淳一郎さんの新刊をチェックすることと、phaさんのブログである。

とかく厭世的になりがちだったわたしは「高学歴ニート」を称するphaさんの、ちょっと脱力しつつ知的な雰囲気を愛していた。そんなある日、こんな記事が上がった。

 

pha.hateblo.jp

 

 菩薩。phaさんを通じて中島みゆきが出てくるとは思わなかった。13年前の紅白歌合戦の映像が脳裏をよぎった。この記事が上がった5年前時点で、「ファイト」の歌詞のイメージから中島が九州出身者だと思い込んでいた程度には、わたしはまだ彼女という存在に疎かった(実際は北海道)。

しかしphaさんをも魅了するのなら、中島みゆきという偶像には「何か」があるにちがいない。おそるおそる、phaさんが紹介されていた、平井堅草野マサムネがカバーした「わかれうた」の動画を視てみたら、意外に安心して聴くことができた。

アレ、なんかこれまで抱いてた「野太い」「ヤバい」イメージと違う蠱惑的な...むしろ繊細なメロディーラインじゃない?

それにつけてもスピッツは偉大である。中島みゆきへの門戸を開いてくれたのは間違いなくphaさんとスピッツだと思う。1マス進む。しかしまだ中島本人による歌を聴きたくなるほどのモチベーションはなかった。

 

さらに数か月経ったころ、わたしは山奥の病院で当直をしていた。築半世紀を超えた、はたからは巨大な廃屋にしか見えない寂れた病院である。窓の外は「漆黒」とでも形容したくなるような、ふかい闇である。ひどく寒い夜だったうえに、暖房も効きが悪い。当直室は打ちっぱなしのコンクリートにパイプ椅子といった趣で、殺風景この上ない。

 

こりゃやり切れんなあ、とブツブツ言っているうちに、ふとphaさんの記事を思い出した。医局のパソコンから、まったくの思いつきで「中島みゆき」で動画を検索してみると、デビュー間もない頃と思われる40年ほど前の歌謡番組の収録がでてきた。デビュー曲の「アザミ嬢のララバイ」である。

 

それまでデビュー当時の彼女といえば、どこかでみたことがあるレコードジャケットの、浅黒い・映りの悪い写真1枚しか知らなかった。こんなデビュー曲が存在することもこのとき初めて知った。内容は、自らを「アザミ」と称する、どこかうらぶれた感じの女が傷ついた誰かをひたすら慰める「ララバイ」である。歌詞の雰囲気は暗くやや不気味だが、ララバイ、おやすみ、と物悲しいリフレインが妙なグルーヴ感を醸す。

驚いたことに、薄暗いステージで黒いドレスに身を包み、ギターを弾き語る古い映像のみゆきはゾクッとするほどの美人であった。

 

春は菜の花 秋には桔梗

そしてあたしは いつも夜咲くアザミ

 

その半年ほど漠然と感じていた不条理感、phaさんのブログ、という「前フリ」があったことに加え、この晩の「うすら寒い山奥の雰囲気」がなければここまでのインプレッションを受けなかったかもしれない。

 

後で知ったが「アザミ」というのは「不美人」の隠語だとも。

なんというか、美への妄執に取りつかれながら死んでいった幾多の女たちの情念みたいなものが、人型に姿を変えて現れた感じがして、恐ろしさに打たれてしまった。

ベースには菜の花、桔梗といった四季の花々を愛でる土俗的な情念がある。いわばめくるめく花々の色に託された、女たちの狂気の世界である。亡霊の集い歌う、夜の賛歌である。誰が評したのかは忘れたが、処女作というのは、まだ未成熟ながら「その作家のすべてがある」という。以降わたしは彼女という存在のファンになった。

 

以上、中島みゆきという歌手との「馴れ初め」についてくどくどと書いてみた。

何となく気になってはいたものの当初はそんなに興味を惹かれなかったものが、何かのきっかけで自分の中で爆発的にヒットしてしまうというのはあるあるだと思う。ことに私生活において、真綿で首を絞められるような苦しさがあり、どこか現実感も薄れた微妙な時期においてこういった現象は起りやすい気がしている。

 

考えてみたら春日武彦先生の著作にハマったのもそんな感じでした。最近は、長いことアメリカかぶれのキザだと思い込んでいた村上春樹に急激に興味を惹かれ始めた。いくつになっても新たな発見があるのはいいことだ。

 

最後に、ここまで持ち上げといてナンだが、中島みゆきのすべてが好きなわけでもない。

近年の歌はなんだか説教くさい。明らかに万人受けを狙ったメジャー曲より、うらぶれた女がクダを巻いているような、せせこましい世界観のマイナー初期作品の方が、かえって「普遍なるもの」に通じている気がする。

また彼女の真の偉大さは作品そのものというより、自分を飾らず、絶対にボロを出さない卓越したイメージ戦略にあるとも思うのだが、紙面が尽きてきたので今回はこの辺で。チー

 

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