ねずみのすもう

精神科医のねずみ

春日武彦先生のこと

春日武彦(1951~)という精神科の先生がいる。松沢病院医長、墨東病院精神科部長など、精神科医としてバリバリの王道コースを歩みながら1993年「ロマンティックな狂気は存在するか」で作家デビューし、以後臨床経験に裏打ちされた独特のエッセイを書き続けている方である。

 

私が春日先生の著作に初めて出会ったのは、高校3年の末期。国立大の前期試験が終わって結果待ちの宙ぶらりんな時期だった。

 

かなり手ごたえがあったのでほぼ合格は確信していたものの、落ちていた場合に備え後期の勉強もせねばならないがいまひとつ身が入らない。家でゴロゴロしていたら、居間に放置されていた春日先生の「不幸になりたがる人たち」(文春新書)が目を惹いた。父が読みかけのまま放置していたものだった。今にして思うと、ああいう人生の奇妙な「凪」の時期に精神科医の本に出会ったのがその後の進路を暗示していたようだが、それはともかくとして本の内容は異色であった。

 

扇風機に指を突っ込みたくなる謎の衝動についての考察にはじまり、電車内で年賀状を書き始めるサラリーマンや「ああ、そうですか」しか言わないソバ屋の出前など「病気とは言えないがちょっと変な人たち」のエピソード、「捨身虎図」さながらに、自らの肉体を子熊に喰わせ自死を遂げた主婦の話。筆者は文学にも精通しているらしく、ところどころに萩原朔太郎三浦哲郎ウィリアム・ゴールディングといった有名な作家の文章が効果的に引用されてもいる。

一見すると内容に統一性はないようだが、続きが気になって読み進んでしまう。愚かな人々を冷笑的なトーンで描くかと思えば、ほのかな人間愛をうかがわせる筆致もあり、筆者のスタンスも判然としない。

①一皮むけば「おだやかな日常」はたちまち違和感に満ちた不吉な世界に変貌すること

②人間というものが微かな自滅志向に支配されながら危うく生きていること

③この世にドラマティックなものは存外少なく、大団円を迎える前に「あっけなく」収束してしまうこと

など(これらは春日先生の著作に一貫したテーマのように思える)を繰り返し説き聞かせるような本だった。なんだか人を喰ったような、わかったようなわからないような。読み手の根源的な不安感を惹起しつつ、最後は「まあそんな感じだよね」という謎の安堵を与えるような構成。

 

精神科医というと、なんとなく優しく悩みを聞いてくれる人格者みたいなイメージがあったが、こういう自身の仄かな「露悪趣味」みたいなものを隠さない本を書く人がいるとはまず驚きであった。

ちょうど唐沢寿明主演の「白い巨塔」放映当時であり、医者というものはなにかドラマティックな存在だと思っていた高校生の平板な価値観は微妙に揺さぶられた。もしかすると臨床の現場というのはドラマとはちがってこういう本を書かざるを得なくなるほどキッチュな一面があり、医療従事者には独特の耐性が求められるのではないかという微かな予感めいたものがあった。

 

その後試験は無事合格し、私は6年間の医学生生活に入る。いろいろ忙しくて読書からも遠ざかり、春日先生の本のことはそれきり10年あまり忘れていた。先生の著作を頻繁に手にするようになったのはこの5年ほど。図らずも自分自身が精神科医になって、仕事で色々困ったり憂鬱になったりしてからである。

押し入れの中から久々に「不幸になりたがる人たち」が発掘され、これがオレにとっての「医学事始」だったなと妙な感慨に耽ってから先生の他の著作を漁るようになった。

古い精神科の先生の著作は難解だったり、筆致があまりに人格者然としていてついていけないところがあるが、春日先生の本は自身も含めた人間の「いじましさ」を前提に描かれている分、不思議な安心感がある。精神科の臨床をやっていて感じる、どうにも割り切れない気分を代わりに言語化してくれるようなところもよい。内容の要約しづらさ、一見まとまりを欠きながら読み進めるうちに一つの世界観に収斂してゆく感じが、なんだか精神疾患の人の回復過程のようでもある。

人間の歪んだ安息のかたちを論じた「幸福論」、人間の本質は善悪いずれでもなく、ただグロテスクなものではないかとする「本当は不気味で恐ろしい自分探し」、精神科病院のリアルを描いた長編小説「緘黙」、時間の経過とともに予想外の展開をみせる物事の不思議を論じた「待つ力」、言葉のもつ不思議な力「臨床の詩学」などは枕頭の書となった。

 

エッセイとはまた別に、コメディカル向けの啓蒙書(「はじめての精神科」)なども書いておられるがこれも秀逸である。エッセイでの露悪趣味はトーンダウンしていて、支援者自身が燃え尽きないヒントが豊富に示唆されている。精神科のリアルを知りたい人向けにもいいかもしれない。

この文章自体がなんだか散漫になってしまったが、この説明しようとすればするほど論点がずれてゆくような、「わかったような、わからないような」感じが、春日先生の世界であり、ひいては精神科臨床の世界なのかもしれない。ことTLの住人にはわりと親和性のある作風ではないだろうかと思う。興味があったら皆さんも読んでみてくださいチー。

 

わたしにとって「幸せの絶対基準」といったものはない。自分の世界を狭め、歪ませ、盆栽のような世界に生きることが苦痛であるとは限らない。妄想のなかに生きる喜びとか、憎しみを糧に生きる快感、被害者意識にまみれて生きる気楽さ、ゴミに埋もれて生きる安逸感、自己憐憫に生きる充実感といったものがまぎれもなく存在していると思っているから、心の底からそういった状況から抜け出したいのならばどうぞと手を差し伸べてはしても、こちらから相手の手を握ったりはしない。

世間一般でいうところの「不幸」をみずから選択し、そこに安住したがる人間はいくらでもいる。...安っぽく通俗的な「幸せ」の押し売りなど、する気はないのである。

「はじめての精神科」(医学書院)