ねずみのすもう

精神科医のねずみ

2021年の抱負

とくにない。2020年は公私いろいろあって、ちょっとやさぐれていた。それゆえ、いま振り返ると極端な煽り芸みたいなことを種々やらかしてしまった。慙愧の念に堪えない。

 

精神科病院というのは、内科外科の病院にくらべて体の急変が少ない分「まったりとした」時間が流れているかに見えて、人類史を通じて不当に遇されてきた精神障碍者たちの「怒りの微粒子」みたいなものが漂う場所でもある。精神科医療スタッフは否が応でもそれに被曝するのだということに遅まきながら気づいた。治療が必要なのはまず自身であったかもしれず、しかもそれはtwitterを通じて行うべき筋のものではない。2021年はせめてネット空間において不必要にひとを怒らせないようにしたいと思う。

 

電車に乗ったら、泥酔している中年男性が座席に横たわっていた。ちょっと足がむくんでいる。

10年ほどまえの、まだ医学生だったころのわたしが見たら眉を顰めるだけで終わっていただろうが、いま見ると社会的背景、家族関係、診断名、顔だちから類推するに過去にみた患者のうちの誰に近いか、もし精神科に通院しているとしたらどんな薬が出ていそうか、今後の転帰、などが瞬時に思い浮かんでしまう。

何かイベントがあって搬送されるとしたらどこらへんの病院の救急なのか、現場の喧騒、(もし彼に精神科通院歴があった場合、「またか、精神科は何をしているんだ」という現場スタッフの微量のヘイトなども含め...)といった情景も。

ただしこのコロナの情勢下では、そもそも搬送先がないことも考え得るか。

医療崩壊とは、ある日病院の建物がガラガラ音を立てて崩れることではなく、立派な建物も先進医療の機器もそのままで、しかしこれまでなら受け入れや治療ができたようなケースの対応ができなくなることを指す。

コロナ対応の第一線にあるわけでもなく、精神科の中でも戦線の後方にいるわたしにそんなことを語る資格もないのではあるが。

ただし、わたしが今いる、業界的価値観でいえば「ショボい」とされそうな場末病院ですら、すでにかつてできていたことができなくなりつつある。当科でできること、できないことを根を詰めて話し合わねばならない毎週の会議が陰鬱だ。

 

ひとつよかったのは、紅白歌合戦でyoasobiが観られたことだ。妻も同意してくれたことだが、わたしの若い頃よりJ-POPはさらに洗練されている気がする。ムリしてテンションを上げているような軽躁的なところがなく、暗さを暗さのまま受け止めて素朴に表現するスタイル。根拠なき霊感にすぎないが、時代はじわじわと古典的な、日本的情緒のセンスに回帰してゆくのかもしれない。