ねずみのすもう

精神科医のねずみ

何者かになるということ

15歳の頃だろうか、ふと「死後に名を残したい」と思うようになった。

 

生きている間に味わった悲喜こもごも、いろんな苦労も、死んだあとは数少ない家族や友人知人が知るのみとなり、彼らも死ねば「はじめから何もなかった」のと同じことになる。

よく考えると何百万年もの人類史において、どれだけの数の苦悩や喜び怒り悲しみが闇から闇へ葬り去られていったことか。長い歳月を経て、何かで名が残っているのはわずかな選りすぐりの偉人ばかりで、壮絶な人生の大多数はむなしく墳墓の土となっていくのが習いである。それを考えるとゾッとした。

 

不思議と「死んだらどうなるのか」についてはあまり気になったことがない。

神のみぞ知ることだし、全くの無になろうと、靖国に永久に鎮座する「柱」の一員になろうと、雲になって海と天空を循環しようと、何かの間違いで手塚治虫の「火の鳥」みたくプランクトンに生まれ変わろうと、どれもオツなもんだろうなと思うだけである。最後の審判とかいって地獄の炎で焼かれるのはちょっとやめてほしいけど。

 

死後どうなるかわからないからこそ、あくまで現世において自分が味わった体験を唯一無二のものとして形にして残したい、「何者かになりたい」。それ以外の雑念はなかっただけ、かつての私は純粋無垢だったのかもしれない。

で、それを叶えていそうな存在といえば芸術家や作家であり、絵心には乏しい身として文章力ならなんとかなるんじゃないかと思って、作家を志したのであった。

 

作家になるにしても専業で食っていくのは至難の業である。

20年前当時、すでにインターネットの登場で出版業は斜陽を迎えると専らの噂であり、そこまで自身の才能にも自信はなかった。というか、作家として作品を世に出すにしても、なんのバックグラウンドもない若造が何か書いたところで「文壇のお歴々」が評価するはずもない。一定の水準をクリアしてしまえば、なんとか賞というのはかなりコネや話題作りだろうな、というのは察しがついていた。

わたしが世に出たいとするなら、なにか説得力のある肩書は必須であろう。となると士業だ、士業で大学受験だけでカタがつくのは医者だ、というのが15歳なりの考えた結論だった。

 

実際、斎藤茂吉、あるいは息子の北杜夫、中国の魯迅など、医学の畑から作家に転じた例はそれなりにある。正直、一族に医者がいないので、医者の仕事が具体的に何なのかはよく知らなかったし、理数より文系科目の方が好きだったので医学部受験はだるかったが、まあ野望のためなら少なくとも邪魔になることはない進路である。

それ以前に親がとにかくうるさかったんだけどね。医学部医学部。いま振り返っても自分たちは好きなことばっかやって生きてきたくせにそれについては口を拭って(「口を拭う」だけならまだしも、時代が悪く不遇に終わったみたいな「被害者意識」まであるらしい)息子の進路を強制するとは許しがたいものがある。結果としてアラフォーの今日まで何とか生きてこられたんだから、いいんですけど。

 

結局作家志望の話は医学部に入って、医者として研鑽()を進めるうちに、いつしか脳裏の片隅に追いやられていった。平和な世の中では、真面目に何かをつきつめて考えたりするのは好まれないし、そのような機会があったにせよ「文学」に代わる媒体がいくらでも生まれつつあったからである。異性関係に没入するようになって、そういうのがさほどウケないのを早々に理解すると、そんなものをアイデンティティの一部にしていた自身にも失望するようになった。

つまるところ、医者としても個人としても、人生修業するうえで「謎の文学意識」みたいなものが邪魔になってしまった、というのが大きいであろう。医者兼文筆家、というのは、少なくとも大正昭和の時代に比べると需要や権威は著しく低下しており、私自身もその煽りを受けて等身大の「一医師」以外の生きる道がなくなった、と言わざるを得ない。

 

(コロナ以後のX(旧ツイッター)で見かける「医者兼文筆家」の現実をみると、まあかつての作家なんてのも実態はこんな感じだったんだろうし、正体がバレて相応の待遇になっただけなのかもしれないが。作品の評価と人間性は別問題にはちがいないことは付言しておきます)

 

と言っている間に、私自身もう40の声を聴く年齢になってしまった。鏡をのぞくと髪にちらほら白いものが混じってくるようになった。

いまの境遇に全く不満がないといえばウソになるし、時たま夜中など言い知れぬ怒りが込み上げてくる。結局、かつての私が考えた「何者かになりたい」とは具体的になんであったのか。思春期特有の視野狭窄ナルシシズムで修飾されていただけで、結局は有名になって「モテたい」「チヤホヤされたい」程度の内容でしかなかったような気もする。しかし、さすがにこの年齢になると、所謂「著名人」の光と闇がくっきりとわかるようになる。凋落した「元著名人」となると悲惨なもので、いまさら無名の一市民には戻れないし、落ちぶれた「一市民以下の何か」になってしまうリスクすら付き纏っている。いまとなっては著名人になりたい、とはあまり思わない。

少なくとも人に「バカにされることは少ない」肩書と、安定した収入。中年期以降の生活には一番大切なものであろう。

人生の期待値を考えると、8割がた「まあこんなもんでよかったかな」「むしろお釣りが来たレベルで得をしたかな」と思わなくもない。

かつてキラキラしていた人が現在食い詰めて醜態を晒していたり、どんどん変な方向にいったりするのを見るのは「身につまされる」反面、ちょっと楽しい気分もあることは告白せねばなるまい。

 

自分が生きてきた、こせこせした小市民の道。生まれながらの極太実家みたいな恵まれたステイタスはなく、せいぜいが「高級奴隷」の椅子をめぐってあくせくしていた半生。才能を過信して「自分のように生きなかった人」が没落してゆくのをひそかに嗤う趣味、それが娯楽になりさほど恥ずかしいと思わない品性。こんな駄文をダラダラ書いている姿。これすべてが本来の私であった。

つまるところ、このチー太郎なる人物は、中の上くらいの捨扶持が与えられていれば、ときどき教養めかした駄法螺を吹くくらいで十分充足できる人間であり、「何者か」に本気でなるつもりもなかったのかもしれない。いや、俺は本来そんなもんではない、と今でもたまに夜半に憤激しそうになるのが何かの病状なのかもしれない。

 

そもそも「何者かになる」なんて発想が平和ボケした時代の意識な気もする。普通じゃいやだ!みたいな厨二意識以上の意味はあるんだろうか。

それより戦争で敵が攻めてきたり、内乱になったり、大災害が起きたりの心配が現実のものになり始めたし、一思いに死ねればまだいいけど、捕虜になって地雷原を歩かされて手足を一本ずつ失う、拷問で肉を少しずつ剥がれ焼かれながら悶え死ぬ、がれきの下敷きになって徐々に火が回って焼死する、という光景が現実になってしまうと、そんな問いはどこかに吹き飛んでしまうだろう。

 

中川淳一郎氏がエッセイで書いておられたと記憶するが、「おじいちゃんはね、昔こんな夢があったんだよ、まあ叶わなかったけど、その代わりお前に会えて幸せだったよ、ゴホゴホ!」と孫に語りながら死ぬ、くらいが一番幸せなのだそうである。その文章を読んだ当時はちょっとモヤモヤしていたが、現在では「そのように孫に語れる」シチュエーションが語る「諸々の背景」が十全に理解できたため、9割くらいは同意できる。今後も時折夜中にわけのわからない怒りが噴出して壁に穴をあけたりすることはあるかもしれないが、このまま「何者でもない」、せいぜいネットの感じ悪い人くらいの半端者としての生を全う、するのが身のためかもしれない。

 

 

今夜は、月がいい。おれは三十年あまりもこれを見ずにいたんだが、今夜見ると気分が事のほかサッパリした。してみるとこれまでの三十何年間は全く夢中であったというわけだ。

魯迅狂人日記

 

古文の授業でやたらと「月」にまつわる文章や和歌が出てきた。

 

徒然草で、「花は盛りに、月はくまなきをのみ...」の段は当時は退屈だった。

 

「昔、男ありけり」の伊勢物語

月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして

 

と詠んでさめざめと泣くシーンとか、男が失恋で泣くなんて古代人とやらは女々しいなと思った記憶がある。

 

伊勢物語を教えてくれた古文教師は、顔色の悪い・痩せぎすで背の高いアラサーの男で、何を語るにも別の何かを一々引き合いに出して貶す癖があった。

最初の授業では、開口一番、「俺は前の学校は態度が悪すぎてクビになった。普通の教師だと思わないことだ、個人的に反感を持った相手には生徒であろうとあらゆる手段で報復する」と宣言するなどとにかく無駄に感じの悪い人物だった。いったいこんな人が古典の情緒の世界にどう引き寄せられたのだろう、と不思議で仕方なかった。陰で真似されたりネタとして面白がられてはいたが、実際に彼を慕う生徒はあまりいなかったように思う。

そういえば、若いに似ずに左翼思想にかぶれていて、古文の授業なのによく昔の日本と天皇制の批判をしていた。左翼の歴史教師はありふれているが、「左翼の古文教師」となると珍しいかもしれない。個人的にさほど好意はなかったものの、なぜ日本の伝統が嫌いなくせに日本の古典を専攻していたのかちょっと興味はある。機会があればあらためて訊いてみたい気がする。

 

月にはじまる「自然」といえば、医科大に入ったとき、どういう文脈か忘れたが同級生が「俺さあ、自然が美しいと思ったことないんだ...」と語ったのになぜか深い共感を覚えたことがある。

18、9歳くらいのわたしが、芸術に描かれる「記号としての自然」が美しいものなのは理解していたが、実地のそれをみて心を動かされた経験がほぼなかったのは幸か不幸か。

中二病の名残で、古い国内海外の文学などは好きだったが、あくまで巧みな表現や語彙、「言い回し」が好きだったのであり、ハマればハマるほど「実際の世界への親しみ」はむしろ薄れていたのである。

 

わたしが自然の美に感動した瞬間があったとすれば、大学2年の夏にフラッと香川県の小豆島に旅行にいったときのことである。

 

岡山港からフェリーに乗って土庄に渡り、自転車で島を半周したのだが、道の右側に伴走しているかのようにずっと広がる瀬戸内海は異世界感があった。点在する小島が、ひょいと手が届きそうに思えるほどの塩梅である。こんな箱庭みたいな可愛らしい海があるのだなと思った。

 

なんとか灯台という見晴らしの良いスポットがあるときいて山の中に分け入ったが、どんどん森の中に迷い込むだけで迷子になりかけた。途中で、井戸と、それを囲むように藁ぶきの民家が数件点在しているような異空間が突如現れた。何十年も前に打ち棄てられた廃村だった。軒先に座り込みながら、ここで行き倒れるのではないかという不吉な予感がした。細い坂道をさらに登って行ったら、突然視界が開けて灯台と180度展望の海が見えた。沖をゆるゆるとタンカーが移動している。あれはよかった。

 

さて月である。考えてみると、古今東西の詩に歌われ、太陽とならんだ美と神秘の象徴とされながらわたしは月というものをじっくり眺めたことがなかった。

 

ふるさとは浅茅が末になり果てて月に残れる人の面影 (新古今・藤原良経)

ふるさとの小野の木立に

笛の音のうるむ月夜や

をみなごは熱き心に

そをば聞き涙流しき  (三木露風「廃園」)

 

作品の世界にある月は、夢の世界にぼんやりとあらわれる理想の女性みたいな手触りで迫ってくる。しかし生活の中で実物を眺めてみると一体こんなものがどうしてポッカリ空に浮かんでいるのだろう、という空虚な気持ちになる。朝方に傾きかかっている半月が、小学校の登校途中に眺めたらプラスチックの玩具みたいに見えたのを思い出す。

 

そういえば太宰治が「富岳百景」で、富士というものは実物は興ざめすることが多く、御坂峠から眺めた富士が風呂屋のペンキの絵みたいに見えた、と書いていなかっただろうか。わたし自身が都会っ子なこともあり、明るい都会のビル群の合間から見える月というのはあまり神秘性がないのである。

 

ところが、最近奥地の病院に勤めるようになってからのことである。

このブログやツイッターをはじめて5年、私自身の加齢に伴う心境の変化もあるのだろうが、ある当直の晩に、回診で病棟を巡回しているときに、建物の外に出て眺めた月はなにか凄みがあった。満月に近かったが、懐中電灯のほかはほぼ真っ暗のため、月の明るさだけが冷え冷えと辺りを支配していた。ほぼ暗黒の山と森林をコントラストに、月ってこんなに明るいものなのか、というのが新鮮な驚きであった。太古の人間は太陽や月、数多の天体をこうした「畏怖」に近い感情をもって眺めていたのであろう。そう考えるとじわじわと恐ろしい気持ちにもなってくる。ヨーロッパでも月光はときに人間をオオカミに変え、精神を狂わせる力を持つと考えられ、lunaticの語源ともなったのもわかる気がした。

 

(昔こんな月を誰かと眺めていたことがあったのではないか、それもうっとりした「月見」などではなく、なにか不吉な事情を間にもつ誰かと、抜き差しならない相談をするような状況で。

そういう夢を何度か見たことがある気がする。場所はやはり山奥だか土手だか、ひらけた草原に座り、相手は見知らぬ若い女である。わたしが言い訳がましく二言三言つぶやくと、相手は険しい表情でこちらを詰る。いや、「険しい」などというものではない、眉間に寄った皺がまるで老婆のように、全体の印象をぐにゃりと歪んで見せ、悪意だか憤怒だか悲しさだかがないまぜになった、マイナスの感情の塊が具現化した何かがそこにある。口調が激しくなるとともに、もとは透き通るように美しかったはずの・それが今やかえって凄惨な印象を増している青白い顔が徐々に近づいてくる。刻一刻と、張りつめた空気が充満する二匹の獣のような人間の様子を、満月が明るすぎる光を放ちながら冷たく見下ろしている...。)

 

冒頭に引用した魯迅(1881-1936)の「狂人日記」は、「精神病者の手記」の形をとりながら、中国の伝統社会の欠陥を指摘した名作とされている。医学部受験を決めたものの、じつはそうまで切実に医者になりたいわけでもない、モヤモヤした気持ちでいた15歳の秋に読んだ。心理描写にリアリティがあり、医者になるなら精神科と思うきっかけの一つになった作品だが、月に関する一文はなかなか示唆的である。わたしもできれば詩文の中で、いつまでも絹のような手触りの美しい月を愛でていたかったものだが、寄る年波がそれを許してはくれなさそうである。

 

 

 

 

 

 

 

自殺考

幸か不幸か、これまでの人生、真剣に自殺を考えたことがない。

 

漠然と死にたいなーと思ったことは何回かあるのだが、いざ実行に移すことを考えると、仕損じた場合の悲惨さが真っ先に思い浮かんでしまい躊躇してしまうのが常だった。

 

子供のころ読んだ「学校の怖い話」で、自殺した人の霊は成仏できず、狭い暗闇で何百年も一人で立ち続けていなければならない、というくだりが妙に脳裏にこびりついていたせいもある。死後の世界が安寧である保証もないのである。

 

この辺、イスラムのジハード戦士の「神のために自爆死したものは永遠の快楽の園にゆく」みたいなカラッとした砂漠の死生観とのコントラストがある。多湿因循な東アジアならではの文化的発想かもしれない。

 

精神科医になってからも、担当した患者さんの自殺に直接遭遇したことは幸いにして(?)ない。

これはわたしの治療が優れているというより、真剣に生死について悩んでいるひとはわたしという医者をみて「こりゃあかん」と通院をやめてしまい、その後自死しても観測されていないだけではないかと疑っている。

 

真面目ぶってはいるが中身はスーダラな感じは、感覚の鋭い人には容易に見抜かれるのであろう。一方、そういった不幸な転帰をとるケースに当たりがちな精神科医というのもいる。

 

不思議といえば不思議だが、世の中には、身の回りで生死をかけた不幸が起こりがちな人と、そういうものにあまり縁のない人とがいるようで、わたしの場合は後者なようである。

 

否、正確に言うと、担当患者というわけではないが、形だけ1回面接した人物がわたしの手を離れて、「その後しばらくして自殺していた」ことなら数回だけ経験がある。

 

かなり前、とある施設の「名ばかり診療室長」になって週一で新規入居者の面談を行っていた。大抵ほかの医院が通院先として存在していたので、わたしが主治医であるわけでもない。そこの規定で入居時に1回だけ、その後は何か異常がなければとくに診察もしない「形だけ」の顔合わせだった。それを数年やっていたのだが、面談のしばらく後に施設職員から自殺の報告を受けたことが数件あったのである。

 

1回の診察で、それと疑わせるような兆候は特になかった。お前の精神科医としての勘が鈍いだけだと言われたらそれまでだが、教科書に「自殺のリスク因子」として取り上げられているような自傷や自殺企図の過去なども、情報を集める限りとくになかった。いじめ虐待パワハラ重労働といった背景も、すくなくともその前後にはない。

そもそもメンタル不調の訴えはなく、身体疾患の通院先のみで、すべて本来の筋からいうと「精神科医が登場する理由すらない」ケースだった。あちらから見ても、なんで精神科医なんかが出てくるんだよ、かったるいなぁ、という感じだったと思う。

 

面接していた印象であるが、今にも魂の消え入るような、危うげな印象もなかった。どちらかというと態度はちょっとぎらついていて挑戦的だった記憶がある。へぇ、あなたが精神科医という人種ですか、まあお手並み拝見ですね、とでも言いたげな小馬鹿にした口調や応答で、正直ムッとさせられたのである。そういった人物がその後しばらくして近くのビルから身投げした、などと報告を受けて驚かされた。

 

自殺というと、死にたくなるようなダメージの蓄積の末に「悲痛な覚悟」をもって行われるイメージが強い。

実際、多数の自殺ケースはそのように行われるのであろうが、なぜかわたしの経験したごく少数のケースは、表向きはそれを危惧させるような情報も乏しく、むしろ生命力が不吉な方向に横溢しているタイプの人物が、エネルギー発散のベクトルを誤って「うっかり」足を滑らせるようにして現世から退場したようなケースだったように思う。この仕事を長くやっていると、エビデンスの俎上には載らない事態の印象が強まって、どんどん疾患なり現象の本質に自信がもてなくなっていくようなところがある。

 

自殺といえば、フランスの自然主義作家モーパッサン(1850-1893)の作品で、自殺者の心理を解剖したものがある。

 

青空文庫」で公開されているが、老年にさしかかったとある男が大きな理由もなく、長年のちょっとした不全感や孤独感の蓄積の末にピストル自殺をする話で、もしかしたら自分もこんな感じでふと自殺してしまうのではないか、という恐怖の肌触りがじわじわ伝わってくる作品である。作品はこの「私」の遺書がメインである。

 

モオパッサン 秋田滋訳 ある自殺者の手記 (aozora.gr.jp)

 

何もかもが、なんの変哲もなく、ただ悲しく繰返されるだけだった。家へ帰って来て錠前の穴に鍵をさし込む時のそのさし込みかた、自分がいつも燐寸マッチを探す場所、燐寸マッチの燐がもえる瞬間にちらッと部屋のなかに放たれる最初の一瞥、――そうしたことが、窓からと思いに飛び降りて、自分にはのがれることの出来ない単調なこれらの出来事と手を切ってしまいたいと私に思わせた。


 私は毎日顔を剃りながら我とわが咽喉をかき切ってしまおうという聞分けのない衝動を感じた。頬にシャボンの泡のついた、見飽きた自分の顔が鏡に映っているのを見ていると、私は哀しくなって泣いたことが幾度となくある。

 

いくら回ったって限りのない円なのだ。そこには思いがけぬ枝道があるのでもなく、未知への出口があるわけでもない。ただぐるぐる回っていなければならないのだ。同じ観念、同じ悦び、同じ諧謔かいぎゃく、同じ習慣、同じ信仰、同じ倦怠のうえを、明けても暮れてもただぐるぐると――。
 

今夜は霧が深くたち籠めている。霧は並木路をつつんでしまって、鈍い光をはなっている瓦斯ガス灯がくすぶった蝋燭のようにみえる。私の両の肩をいつもより重くしつけているものがある。おおかた晩に食ったものが消化こなれないのだろう。


 食ったものが好く消化れると云うことは、人間の生活のうちにあってはなかなか馬鹿にならないものなのだ。一切のことが消化によるとも云える。

 

...病弱な胃の腑は人間を駆って懐疑思想に導く。無信仰に誘う。人間の心のなかに暗い思想や死をねがう気持を胚胎はいたいさせるものだ。私はそうした事実をこれまでに幾度となく認めて来た。

今夜食べたものが好く消化していたら、私もおそらく自殺なんかしないで済んだろう。

 

つまるところ、自分に今後一切のあたらしい展望や可能性がない、という絶望感が自殺への一里塚なのだと思う。

たとえば過労自殺の案件はたびたび報告されるが、死ぬくらいなら逃げればいい、という、一見正論には違いない意見がいざ当人にしてみるとあまり説得力がないのは、おそらくこの点に尽きる。追い込まれた人間の頭脳には、いまある職務を捨てた先の「展望」がまず描けない以上、それはまた新しい地獄の入り口としか思えないのではないか。

(ことに社会的にはエリートと見なされるような職種の場合、そうでない立場に転落するのはほとんど人間の資格の喪失を意味するかのような「刷り込み」が長年にわたって為されているケースも多い。が、話が脱線するのでここでは深堀しない。)

 

それにしても、漠然と八方塞がりな状況を「食ったものが消化(こな)れない」と表現するのには妙なリアリティがある。

 

結局、57歳のこの男が自殺を直接決意したきっかけは「机の引き出しから偶然出てきた昔の書類を読み返したこと」だった。

 

ああ、もしも諸君がに執着があるならば、断じて机に手を触れたり、昔の手紙が入っているこの墓場に指も触れてはいけない! 

万が一にも、たまたまその抽斗を開けるようなことでもあったら、中にはいっている手紙を鷲づかみにして、そこに書かれた文字が一つも目に入らぬように堅く眼を閉じることだ。忘れていた、しかも見覚えのある文字が諸君を一挙にして記憶の大洋に投げ込むことのないように。

そしていつかは焼かるべきこの紙片を火の中に放り込んでしまうことだ。その紙片がすべて灰になってしまったら、更にそれを目に見えぬように粉々にしてしまうことだ。しからざる時は、諸君は取返しのつかぬことになる、私が一時間ばかり前からにッちもさッち足悶あがきがとれなくなってしまったように。

 

可能性や新鮮味のなくなった日々の生活に追い詰められていた「私」は、ふと、ずっと整理整頓していなかった机の引き出しを開けたものらしい。はじめ出てきたのは最近書いたどうでもいい内容のメモ書きばかりだったが、さらにその下から昔やりとりした手紙などの大事な文書の束が出てくる。とうに紛失していたと思っていて、存在すらほとんど忘れていたものだった。

 

若いころ亡くなった友人や、交際していた女性からの手紙を読んでいるうちに当時の記憶が詳細まで蘇って、みずみずしい感情を取り戻す。久しく「私」が忘れていた感情だった。感傷的な気分に浸りながら、一方でなんとなく不吉な気分がこみあげてくる。もうやめようと思いながら、机の中を最後まで漁ることになる。

 

最後に出てきたのは50年前、7歳になった日に母親に充てて書いた書付だった。

 

ボクノ 大スキナ オ母アサマ
キョウ ボクハ 七ツニナリマシタ 七ツトイウト モウ イイ子ニナラナクテハイケナイ年デス ボクハ コノ年ヲ ボクヲ生ンデ下サッタ オ母アサマニ オ礼ヲ云ウタメニ ツカイマス
オ母アサマガダレヨリモスキナ
オ母アサマノ子
ロベエル


 手紙はこれだけだった。私はこれでもう河の源まで溯ってしまったのだ。私は突然自分の残生おいさきのほうを見ようとして振返ってみた。

私は醜い、淋しい老年と、間近に迫っている老衰とを見た。そして、すべてはそれで終りなのだ、それで何もかもが終りなのだ! しかも私の身のまわりには誰ひとりいない!
 私の拳銃はそこに、テーブルの上にのっている、――私はその引金をおこした、――諸君は断じて旧い手紙を読んではいけない!

 

世間の人は大きな苦悶や悲歎を探し出そうとして、自殺者の生涯をいたずらに穿鑿せんさくする。だが、多くの人が自殺をするのは、以上の手記にあるようなことに因るのであろう。

(「モオパッサン短篇集 色ざんげ 他十篇」改造文庫

 1937(昭和12)年5月20日発行)

 

最終的に引き金になったのは、書きつけの束から出てきた7歳の昔の「何気ない書き付け」だったというのだから皮肉である。自分にも7歳の頃があった、という当たり前といえば当たり前の事実を突きつけられただけで、ラクダが最後の藁を1本置かれて背骨が砕けるかのごとく、主人公は最後の戦意を喪失してしまった。

(話はちょっと逸れるが、子供の書いた稚拙な文章というものには独特の残酷さというか破壊力が立ち上がってくる場合がある。

 

夢野久作の「瓶詰の地獄」でも、無人島に漂着した兄妹が書いた「オ父サマ。オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。」という最後の手紙が、島で起きた惨劇をむしろ生々しく想像させる演出になっていた。)

 

ドン底の気分でいるときはまだ大丈夫で、ふと心が軽くなったタイミングが危ない、とは同業者の間でも戒められるところである。当人の心理を解剖すると、どん底の気分をしばし忘れて、「ちょっと懐かしさに包まれた」先にこそ、今やそれが失われた曠野のようなざらついた現実が再び、よりくっきり迫ってくるのだろう。

 

この作品の恐ろしいところは、結局最後まで主人公の男が自殺した本当の原因は定かでないことである。「気づいたらそのような状況に追い込まれていた」以上の書きようがない。

妻子がいたが別居でもしていたのか、独身だったのかは書かれていないが、生活にもゆとりがあり社交も最後まであったらしい。周囲の人間からみて、自死を疑わせる予兆にも乏しかったという記述も添えられている。もし彼が成り行きで精神科医と面談する機会があったとしたら、まず「へぇ、お手並み拝見」な態度以外示しようがなかったのではないか。

 

そもそも自殺とは何か。縊首、投身といった明らかな自死のケースのみならず、診断書の上では病死でも、実質は緩慢な自殺としかいいようのないケースを同業者であればけっこう経験しているはずである。亡くなった人は多くを語らないし、当人すら自分の内面で何が起きているのかをうまく説明できないものだから正確な統計も取りようがない。が、事実上すでに精神は自死していたようなケースともなると一般に考えられているよりもっと多いのではないか。

 

極言してしまうと、この世のざらついた現実が人間を幅広い意味での自死に誘うようにできているのかもしれない。大半の人間は少しずつそうなって生命を消尽してゆくのだが、一部の不運にもエラーで足を滑らせた人々だけが「明確な」形での自殺として計上されているのではないか。

 

当人にも最後のポイント・オブ・ノーリターンがどこであったかが分からないので、周囲は予見や予防が難しいのではないか...とこの話はどこまでも広がりかねない危うさを孕んでいるが、なんだかこの文章自体が関わった人間を自死に一歩近づけるような、遺書めいた雰囲気を帯びてきた自覚があるので、この辺で擱筆することとする。

 

 

 

 

 

死の家の記録

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連邦はアレクサンドル・ワシレフスキー元帥の指揮下、大挙して満州に侵攻した。

 

敗色濃厚な大戦末期、戦力を南方に移転し、ほとんど「張り子の虎」状態だった関東軍はあえなく壊滅し、置き去りにされた数十万将兵・在留邦人の舐めた辛酸は記録の残すところである。

略奪暴行虐殺の悲劇は「大地の子」などの作品にも描かれる。

シベリアには数多の将兵国際法違反のまま抑留され、多くは強制労働の末に餓死凍死していった。

抑留者に対しては虐使の末に判断力を奪われた上で、共産思想の「洗脳教育」も盛んにおこなわれた。極限状態では日本人抑留者同士のリンチも常態化し、ソ連の御用聞きになった日本人「活動家」による天皇制批判も繰り広げられた。

運よく帰国した抑留者の中にも大いなるトラウマを残すこととなった。(山崎豊子不毛地帯」)

 

 

 

 

 

ソ軍軍は余勢を駆って北海道方面にも侵入、占守島守備隊の奮戦もあって占領地域はなんとか限界で食い止められたものの、北方領土はいまだ還らない。

 

戦後、日本の歴史教育は、ながく左翼主導での「反戦罪業史観」ともいうべき自国否定の歴史観の影響下にあったが、それでもことロシアに対しては日本人の反感は根強く残っていたように記憶する。

 

よくよく史実を紐解けば、(対米戦争で計画倒れに終わったとはいえ)日本側も陸軍主導で対ソ侵攻を目指す「北進論」が根強かったようで、その点はお互い様である。ソ連ヒトラーに一貫してズタボロに負けていたらこちらが侵攻していたifもあったかもしれない。

 

さはさりながら、勝利を掠め取った火事場泥棒のような振る舞いは、我々日本人に「理屈を超えた嫌悪感」を植え付けずにはおかなかったのだろう。ソ連といえば連合国としてはベルリンを陥落させナチスを直接斃した軍功を誇るが、そもそもそのナチスと組んでポーランドを分割・占拠した前歴はあたかもなかったかのような扱いである。ポーランド侵略に続くフィンランドへの侵略(冬戦争)を理由に国際連盟も除名されている。

 

独ソ戦がはじまるまでは、ナチスと並んで完全にヨーロッパ秩序の破壊者とみなされており、英仏でナチスのみならずソ連をも攻撃制圧する計画まであったらしい。

というか、英仏がギリギリまでヒトラーの侵略政策に宥和的であったのはソ連の方を地政学的リスクの高い脅威と見なしていて、ナチスがその防波堤となることを期待していたからでもある。当時の独裁者・スターリンの自国民への粛清や、ウクライナへの飢餓政策(ホロドモール)、連邦内の少数民族への迫害(強制移住政策)もきわめてイメージが悪い。

 

政治的にロシアは信ずべからず。

しかし、その文化はどうだろう。

わたし自身の人格形成に、こと思春期の読書体験に、ロシアは深く関わっていた。

医学部志望でありながら文学なんぞにうつつを抜かしていた・不真面目な受験生であったわたしはまずドストエフスキー(1821-1881)に辿り着く。学生運動の世代くらいまでは若者は「通過儀礼」として、ドスト氏の洗礼を受けるべきという風潮はあり、40年ばかり遅く生まれたわたしも「先例に倣った」。

 

罪と罰」は高1のわたしにはまだ早かった。

 

作家の中村文則が読売新聞で推していた「地下室の手記」は、陰鬱な受験勉強の気分に微妙にマッチした。

今でいう中年子供部屋おじさんみたいな人は1863年当時、日本でいえば幕末の動乱だった時期のペテルブルクにもいたらしい。偶然転がり込んだ遺産で地下室にこもる暮らしを始めた中年男が、なぜ自分がこうなったかつらつら自分語りをする。

2chの暗い内容のコピペを連投するような内容である。未練がましい半アウトサイダー的社会評論は17歳のわたしにかなり刺さった。

 

 

そして大学入学を控えた春休みに買ったのが「死の家の記録」だった。

 

ドストエフスキーは、26歳「貧しき人々」での文壇デビューこそは華々しかったものの、その後スランプが続き、半ばヤケになって参加した社会主義活動によって逮捕され10年間のシベリア流刑を体験している。

 

その作者自身のシベリア監獄体験をもとにした作品だが、主人公は妻殺しで実刑を食った青年貴族のアレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフという設定に置き換わっている。「死の家」とは、主人公ふくめた流刑囚が収容された(おそらくオムスクの)監獄のことである。

 

 

 

監獄のつねとして、娑婆でそれなりの地位にいた囚人は苛烈なイジメの対象になりがちである。ことに元貴族は平民出身が大半な囚人から執拗な攻撃の対象になっていた。ゴリャンチコフははじめは他の囚人に白眼視されながらも、重労働に耐え、囚人=不幸にも最下層に落ちてしまったロシア民衆たち と交流する中で次第に打ち解けてゆき、やがて10年が経過する。

 

いわゆる「縦の旅行」を経験することで、それまでモスクワやペテルブルクの「西欧化された」貴族社会しか知らなかった主人公は、ロシア人の、ひいては人間についての深い考察に目覚める...というのがあらすじである。

 

(余談ではあるが、この手の「収容生活の極限状態から深い考察に至る」のプロットは、90年後のフランクルのナチ収容所体験を描いた「夜と霧」にも受け継がれている。じっさい「夜と霧」には「死の家」からの引用がところどころ出てくる)

 

ここで描かれている19世紀後半のロシア庶民たちは、知能に問題があったり貧困から不幸にも犯罪に加担してしまったケースから純然たるシリアルキラー尊属殺人を犯した元貴族、ポーランド系、植民地人(チェルケス・ダゲスタン・タタール人)など、幅広いのだが、意外にも数々の凶悪な犯罪に加担したはずの彼らは一面では情に厚く、涙もろく、じつに人間臭い。

 

およそ犯罪の名の付くもので、ここの例のないものはないといって過言ではないだろう。監獄の住人の中心をなすのは、民間人の流刑懲役囚(ススイリノカートルジヌイ)だった。

 

囚人たちはそろって、悪罵にかけてはとんでもない達人なのである。まさに彼らは凝りに凝った芸術的な口調で罵り合っていた。彼らの罵言の応酬ときたら、いわば一種の学問にまで高められていて、侮辱的な言葉で相手に勝つというよりも、むしろ侮辱的な意味・精神・思想によって相手を凌駕しようと競っていた。

 

「俺たちはどやされ続けてきた人間だから」

五臓六腑もボロボロで、それで夜中に叫ぶのさ」

 

収容所長は虎だか山猫だかのあだ名をつけられた・サディスティックな陸軍大佐である。違反者はじきじきに鞭打ちとなり半生半死となる。たびたび死者も出るため、囚人たちの間では、鞭打ち人の行列を潜り抜ける際の「体位」だの、何発目を超えたらかえってラクになるだの、致命傷を避けるノウハウまでもが口伝されている。

 

囚人同士の諍いや密告、酒タバコの密売などは日常茶飯事である。蒸し風呂のような人間地獄だが、なぜか不思議な「秩序めいたもの」も保たれている。

 

ある晩、子供をさらって殺した快楽殺人犯が事件のあらましを自慢げに語りだしたことがあった。話題に飢えているサイコパシーな囚人たちのことだから、爆笑が巻き起こるかと思いきや、一斉にブーイングの嵐となり、彼は黙らざるを得なかった

(ただしそれは「義憤に駆られた」からではなく「そういう話をする決まりがなかったから」と主人公は考察する。義侠心ともまた違う暗黙の了解、あくまで「色調(トーン)」のなせる業である、と。そういうものは監獄のみならず人間社会に多くあるのではないか)。

 

貴族の囚人仲間の逃亡事件など、波乱が巻き起こる中、10年の刑期を終えて、ゴリャンチコフが釈放されるシーンで話は唐突に終わる。

 

私は心の中で獄舎をとりまいている丸太の柵に別れを告げた。当時私はこの不愛想な柵にどれほどおびえたことだろう。

...それにしても、この柵の中でどれほどの青春が理由もなく葬られ、偉大な力が無駄に潰えたことか。こうなったら何もかも言おう。ここにいたのはまれにみる人々だった。もしかしたらわがロシア国民の中でも、もっとも才能と力に恵まれた人々だったかもしれない。

 

足かせが外れた。私はそれを拾い上げた。最後に一度手に取って眺めてみたかったのだ。こんなものが今の今まで自分の足についていたことに改めて愕然とする思いだった。

「まあ達者でな、達者で!」囚人たちはぶっきらぼうだが何か満足しているような口調で言った。

そう、お達者で!自由、新生活、死者の世界からの復活...。なんと素晴らしい瞬間だったろう!(完)

 

釈放後、待つ者もないモスクワに戻る気も失せていたゴリャンチコフはシベリアの地方都市で隠棲していたがほどなく病死する。

地味な暮らしぶりだったため死後は住民からは急速に忘れ去られるあっけない末路だった。全編は、彼の残した記録を偶然ひもといた「無名作家」による後日談として語られる。

 

結局ここに描かれた「ロシア民衆」なるものの本質は何回読んでも判然としない。

 

犯している罪だけを見れば殺人強盗強姦はなんのその、彼らはそれを内心反省しているそぶりも薄く、監獄ではひたすら囚人同士の悪罵や嘲笑、規律違反と鞭打ち・体刑の繰り返しである。外部から見たらむしろ純然たる悪でしかないだろう。

78年前の夏に裏切って満州に攻めてきたソ連軍人たち、現在ロシアがウクライナ侵攻でやらかしているその悪行は、まさにこのような「ロシア民衆」上がりの兵士によって行われていることは想像に難くない。

 

しかし、ゴリャンチコフは囚人たちが娑婆で犯した罪の実態をつぶさに知り、自身も監獄内でひどい迫害を受けたにもかかわらず、彼らの人間臭い一面、貴族も平民もなく最後は喜怒哀楽を分かち合えた体験を彫り下げて「もっとも才能と力に恵まれた人々だったかもしれない」と記す。

 

かつてソ連侵攻で辛酸を舐めた同胞の被害、現在進行で行われているウクライナでの秩序壊乱行為を思うと、ふざけるんじゃねェボケ、とブチ切れたくなる反面、いったいこれはどうしたことかと困惑したくもなる。

 

ロシア人、ひいてはある民族、ある国民、ある人間には必ず二面性があるのだろう。仲間を慈しむ心、四季や自然を愛し涙する心と、他者を人間とすら見なさず平然と蹂躙する心というのは、どうやら全くの別物というわけでもなく「地続き」らしい。

 

2014年のクリミア併合が始まる前は、21世紀のロシアはスターリン時代とは別物であり、徐々に民主平和国家に近づいてゆくに違いないという淡い期待があった気がする。

実際2000年ころ、プーチンはそれまでの旧態依然としたロシアを革新するリーダーとして日本のメディアにも好意的に取り上げられていた。

 

今回のウクライナ戦争についても、すでに実効支配に置いた地域から浸透・同化政策を行うくらいのことは想定していたが、まさか初戦から首都制圧をめざす世界大戦型の「全面侵攻」をはじめるとは考えられていなかった。結局、彼らの生活スタイルが「やや欧米化」しただけで、国家としてのロシアの性格は前近代からまるで変っていないことが明らかになってしまった。

 

わたしがロシア文化を「楽しんで」いたのは、どこかでかつての侵略国家としてのロシアは過去の遺物だと思っていたからである。自国領をいまなお不法占拠している国相手に呆れた平和ボケである。現実の状況は刻一刻と泥沼化している。

 

不快な事実ではあるが、戦争への支持率をみても、悪いのはプーチン政権であり「ロシア民衆」は善良、というのは考えづらい。1933-1945のドイツはナチスという暴力団に乗っ取られていただけでドイツ人に罪はない、というのに似た詭弁だろうと思う。

おそらく多数派のロシア人はウォッカを嗜み、仲間を愛おしみ、歌い踊り、すべての旅行者を歓待するまさにその「純朴な心」を以てウクライナの併合を支持しているのである。

 

ロシア文学の巨匠であるドストエフスキーは、最終的には正教会の信仰に基づいた「大地賛美主義」を唱えることになるが、たぶん160年経った今回のウクライナ侵攻もそういった汎スラヴ主義めいた思想の延長にあるものだろう。

彼がいま生きていたら高確率でプーチンの戦争を支持していたのではないか。シベリアの「死の家」の囚人たちの、野に咲く花を美しいと思う心が強姦や殺人と地続きだったのと同様、また偉大な巨匠の思想も侵略戦争と地続きだったりするのである。

 

たぶんこの先、気楽にドストエフスキーだのチェーホフだのを楽しむ余裕はなくなるかもしれない。いまや日露は事実上の「準敵国」みたいになっているし、生半可にロシア精神に「理解を示したりする」と売国奴扱いされる未来が近づいている予感もする。舌禍筆禍時代の到来である。

そのころにはこのブログも閉鎖されているであろうし、きっとわたしもマジョリティーに媚を売りながら御用ツイートでもしているだろう。そうなる前の、以下はわたしの中二病時代の供養である。同様「死の家」からの抜粋。

 

ダゲスタンのタタール人は3人で、血を分けた兄弟だった。

末弟のアレイは弱冠22歳で、見かけはもっと若かった。

なかなかの美男で気取りがなく、賢そうであると同時にいかにも善良純真そうなその顔を一目見たとたん、私はこの青年のことがすっかり気に入ってしまい、運命がほかの誰でもなく彼を隣人にしてくれたことに大いに感謝したものだ。

(注・このダゲスタン・タタールの兄弟はアルメニア商人を襲って殺害し逮捕されていた。アレイは兄に命じられるまま、わけもわからず殺人に加担してしまったらしい。)

 

私はこのアレイを非凡な人物と思っていて、彼との出会いを人生で最良なもののひとつとして思い出すのである。世の中には生まれつき美しい、神の恵みをさずかった天性というものがあって、そうした天性がいつか悪しきものにかわるなどということは想像もつかない。そういう天性の持ち主は、いつも安心してみていられる。私は彼のことはいまでも心配していない。今彼はどこにいるのだろうか?

 

「なあアレイ、お前はきっと、故郷のダゲスタンではどんなふうに今日の祭日を祝っているか、考えていたんだろう?きっとお前の故郷はいいところなんだろうね?」

「うん」アレイはいかにもうれしそうに答えて目を輝かせた。「でも、どうしてわかったの?俺がそんなことを考えていたなんて?」

「きっと今頃はいろいろな花が咲いて、さぞかし天国のようだろうね」

「だめだめ、思い出させないで!」

「お前には姉さんがいたかい?」

「いたよ、それが何か?」

「きっと姉さんは美人なんだろうね、お前に似ているとすれば」

「俺に似ているだって!姉さんみたいな美人はダゲスタン中さがしたってどこにもいないさ。あんただってあれほどの美人は知らないよ!俺の母さんも美人だったからね」

「ほう、で、お前の母さんはお前をかわいがってくれたかい?」

「当たり前じゃないか。きっと母さんはもう、俺の身の上を悲しむあまり、死んでしまっているに違いない。俺は母さんのお気に入りで...姉さんよりも、ほかの誰よりもかわいがられていたんだ。その母さんが昨日夢に出てきて、俺の身の上を嘆いていた」

 

「ねえアレイ、ひとつロシア語の読み書きを身に着けたらどうだ?それがシベリアで、のちのちどれほど役に立つかわかるだろう?」

「それは身に着けたいさ、けどどうやって?」

「よかったら私が教えてやろうか?」

「ああぜひ、お願いするよ!」

 

私たちは次の晩からとりかかった。私の手元にはロシア語の新約聖書があった。獄中でも許可された書物である。この本一冊だけでアレイは何週間かで見事に読むことを覚えた。3か月もすると、文章語を完全に理解するようになっていた。

あるとき私は彼と一緒に「山上の垂訓」を全部通しで読んだ。気が付くと彼はいくつかの個所をなにか、特別な感情を込めたような調子で読み上げていた。

「イエスは聖なる預言者で、神の言葉を告げたんだね。すばらしいことだ!」

「許しなさい、愛しなさい、辱めるな...。敵を愛しなさい。ああ、なんていいことを言うんだろう!」

 

アレイが監獄を出て行ったときのことは決して忘れない。

彼は私を監房の裏へと連れて行って、そこで私の首にかじりつき泣き出したのだった。それまでは一度も私にキスをしたこともなければ、泣いたこともなかったのである。

「あんたは俺にたくさんのことをしてくれた」

「俺の父さんでも、母さんでもできないほどのことをしてくれた。あんたは俺を人間にしてくれたんだ。神様がご褒美をくれるだろう。俺はあんたをいつまでも忘れない...」

どこに今お前はいるのか。私の優しい、かわいい、かわいいアレイ...。

 

読んでいると甘たるい、同性愛的なものを感じる。腐女子が喜びそうなくだりである。この「ダゲスタンのアレイ」の挿話自体は短いもので、全編におおきな影響は与えていないし、わたしにしても「単に引用してみたかった」以上の意味はない。

 

余談ではあるが、「カラマーゾフの兄弟」のキーパーソンである善良な神学校生徒のアリョーシャは、この「アレイ」が下敷きになっていそうではある。

 

現在のロシア軍の中にも、純粋に正義の戦争と信じてか嫌々かは知らないが、侵攻に参加して戦病死あるいは拷問死し、あるいは退却を許されず味方に殺害され、屍は野に打ち捨てられ、その死は顧みられることのない幾多の「アレイ」もいるのだろうと思う。

時代錯誤の親露派の情報発信は笑止としか言いようがないが、十把一絡げにロシア軍の戦死者を嘲弄するような自称「軍事通」のツイートにも、人間というものをなにか根本から誤解した・薄気味悪いものを感じてミュートしてしまった。

 

だとしてもロシアの戦争に大義はないと個人的には考えるが。

 

繰り返しになるが、以上は、ふたたび以後100年は正常化しないであろう日露関係への失望と、かりにもかつて一時期、精神的な危機にあったわたしを支えてくれたロシアの精神性みたいなものへの感情の供養である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流人島にて

前回のエントリーから2年が経過した。この間、コロナ禍は依然収まらず混乱が続き、なんと欧州では常任理事国による侵略戦争という二次大戦以来のカタストロフが発生した。わたしは何をしていたかといえば、2021年春時点で勤めていた職場を「半ば追放のような形で」退職するハメになり、折から沸騰したワクチンバイトをしながら限界病院を彷徨していました。

 

どうもこのブログには「予言の自己成就」とでも言うべき要素があって、過去の記事を読み返すとその後訪れる運命的な出来事を暗示しているかのような気配がある。

ここ2年ブログを更新しなかったのは、忙しくなって放置していたのもあるが、「不吉な文章を書くと、そのまま不吉な出来事に見舞われそうな」恐怖を感じて無意識のうちに距離を置いていたから、かもしれない。

 

そんな深い問題でもなく、ネットでろくでもないことをしていると悪いことが起きる、という当たり前の因果かもしれないが、医学部東大換算問題などの不行跡によって多くの人の怒りを買い、深い恨みを抱かれたので、以後はできるだけ平和なツイートをしたいものです。

保護室

精神科病院に入院するとき、興奮が強かったり病状が不安定なとき「刺激を避け」「休息してもらう」ために入るのが保護室という。一般床とは別のがっちりした個室である。万が一壁を叩いても衝撃は吸収され事故やケガを防ぎ、ある程度の防音効果で聴覚が余計に刺激されない仕組みにもなっている。何十年も昔、精神科病院がおどろおどろしいイメージで語られていた時代は薄暗く刑務所の保護房と見まがうような陰惨なものも多かったようだが、いまはどこの病院も建て替えが進んで保護室はクリーンで明るい造りになっている。危険物の持ち込みはできないため、どうしても殺風景ではあるが。

 

さて、わたしがはじめて精神科病院に入ったのは医学部1年の実習のときのこと。

重症例ばかり集められた某所の精神科救急病院で、保護室で治療中の患者とドア越しに接触することになった。これが噂にきく「保護室」との人生初体面だった。「あらまあ可愛いボク、こっちおいでよ悪さしないから」と大声で呼びかけるアラフォーくらいの女性がいた。とにかく興奮が強く言っていることはかなり滅裂で、正直ちょっと怖かったが、人間だれしも脳病とはこんな感じになるのだろうと思った。鴎外の「舞姫」で、「癲狂院」に送られたエリスもこんな感じだったのかなと思った。(なお付け加えておくと、こうした激しい状態は一部の困難例を除き投薬によってわりとすぐ改善する。あくまで一過性のものであることが多い)

 

ショックだったのか、同じ班の女子は昼食をとっている際に泣き出してしまった。ただし、この泣き出し方にはちょっと自己憐憫も含めた「あざとさ」があったようにも思う。もう一人の慰め役の女子が「人間てなんだろうねえ」としみじみ呟いていた。こういう若干19歳にしてみんなのお母さん的ポジな女子というのは必ずいるものである。声がちびまるこちゃんに似ていた。同じ班でもう一人の男子学生は、「ああ疲れた。はやく帰りたいよ」といかにも興味がなさそうにしていた。わたし自身はといえば覚めたもので、疾患それ自体についてはこういう病気があって治療法もあるのだな、としか思わず、それにしても精神科病院という環境が部外者である我々医学生に与えた心理的影響や、個々の反応の違いが興味深かった。精神科病院というものには、精神の極北をみた瞬間の防衛的態度、意地悪く言えばその人が人生の折節に見せる「居直り」みたいなものを現出させるなにかがあるようだ。

 

その後、解散となった後は帰宅とはならず、わたしは医学部運動部のハードな夜練があった。いつも通りというか、いつになく先輩にドヤされた気がする。あそこには病に苦しんで、一時なりとはいえ世間から隔離されている人々がいる一方、外部の日常は何事もなかったかのように進むのだな、というのが新鮮な驚きだった。まったく交錯することのない、互いに存在を想像もしない生活がこれだけの至近距離に数多存在するというのは、精神病などより数倍グロテスクなことではないだろうかとも思った。

 

精神科医になってそろそろ10年弱が経過したが、教科書的な知識や治療経験は積めたものの、なぜこのような病があり、何の必然性があって「患者」と「患者でない我々」がいるのかはいまだによく分からない。両者の境界が思っていたより曖昧なことがより事を複雑にする。保護室には身元不明の浮浪者から、元大学教授まで様々なひとが入室する。「精神科医は患者と区別がつかない者がよくいる」という俗説というか、笑い話みたいなものもあるが、ふと気づくと病衣を着せられて保護室に入れられてるわが身を想像するのは案外容易い。

 

 

 

 

 

 

医者の生活

一族に医者はいない。厳密にいうと祖母の異母弟が某都内ブランド病院名誉院長(?)らしいが1回も会ったことがない。父はサラリーマンである。母方の祖母は看護師、シベリア出兵に参加した父方の曾祖父は獣医将校だった。もっとも勇躍して寒冷の地に乗り込んだもののパルチザンの奇襲に遭って部隊は壊滅、自身も凍傷で早々に戦線離脱したそうだ。現地でコサックから買った熊の毛皮がいまでも残っている。医療関係者といえばそれくらいである。

高校生のとき、唐沢寿明主演の「白い巨塔」が放映されていて、医者ってこんな感じなのか、大学病院で権力闘争して高級クラブでも心理戦を繰り広げて謎の愛人がいたりして大変そうだなと思った。さて、自身が医者になって10年あまり経った。感想としては、ドラマで描かれているのは一握りの出世志向のエリートさんの世界であり、一般の臨床医というのは「案外地味だな」というものである。

 

もちろん、タワマンにザギンでシースー、みたいな浪費家もいるのだろうが、親しい知り合いにそういう人はあまりない。医学部時代に部活などでつるんで今でも交流がある友人などはそろいもそろって消費にあまり興味がなさそうな人物ばかりである。学生時代は月3万5千円のボロアパートに住んでいた。上の部屋では生活保護アルコール依存症のオッサンが時折唸り声をあげており、隣の部屋では新興宗教の集まりがあって五月蠅かった。自炊をはじめたが、あまりに味にこだわりがなく、近所のスーパーで竹輪とキムチだけ買って日々を過ごしていたら謎の倦怠感に見舞われた。微妙な栄養失調だったのだろう。のちに結婚を見込んで同棲先の新居に引っ越したとき、荷物が段ボール6箱しかなかったほどモノにこだわりがなかった。一時、大人の嗜みとしてワインに凝ろうとしたが、「赤玉」、せいぜいアスティ・スプマンテ、ドイツのリースリンクが一番おいしいのではないかという結論に落ち着いた。これまで一番美味しかった食べ物は、子供の頃はじめて食べた回転寿司。小学生レベルの味覚である。味に一切の注文がないので家族からは喜ばれているが。

 

最近「医師として王道で勝つタクティクス」という本を書いた先生がいた。年齢的にほぼ同い年なのに凄いと思う。わたしにとってのなりたい「医者」のイメージは、渡米したり最先端の医療にかかわるエリートというより、カフカの「田舎医者」、あるいは詩集「孔雀船」ひとつを出版して残り40年ほどの生涯を田舎の開業医として過ごした伊良子清白みたいな「鄙びた」ものだった。伊良子清白は往診に出かけたとき脳卒中を起こし、自身も戸板で運ばれつつ亡くなったという。そういうひっそりとした死に惹かれる。鳥も通わぬ僻地の、場末の病院で当直中にこっそり中島みゆきの古い曲を聴いているときが至福である。この歳になっていまから贅沢に目覚めるとも思えないし、このままなるたけ金のかからない生涯を終えたいものだ。