ねずみのすもう

精神科医のねずみ

何者かになるということ

15歳の頃だろうか、ふと「死後に名を残したい」と思うようになった。

 

生きている間に味わった悲喜こもごも、いろんな苦労も、死んだあとは数少ない家族や友人知人が知るのみとなり、彼らも死ねば「はじめから何もなかった」のと同じことになる。

よく考えると何百万年もの人類史において、どれだけの数の苦悩や喜び怒り悲しみが闇から闇へ葬り去られていったことか。長い歳月を経て、何かで名が残っているのはわずかな選りすぐりの偉人ばかりで、壮絶な人生の大多数はむなしく墳墓の土となっていくのが習いである。それを考えるとゾッとした。

 

不思議と「死んだらどうなるのか」についてはあまり気になったことがない。

神のみぞ知ることだし、全くの無になろうと、靖国に永久に鎮座する「柱」の一員になろうと、雲になって海と天空を循環しようと、何かの間違いで手塚治虫の「火の鳥」みたくプランクトンに生まれ変わろうと、どれもオツなもんだろうなと思うだけである。最後の審判とかいって地獄の炎で焼かれるのはちょっとやめてほしいけど。

 

死後どうなるかわからないからこそ、あくまで現世において自分が味わった体験を唯一無二のものとして形にして残したい、「何者かになりたい」。それ以外の雑念はなかっただけ、かつての私は純粋無垢だったのかもしれない。

で、それを叶えていそうな存在といえば芸術家や作家であり、絵心には乏しい身として文章力ならなんとかなるんじゃないかと思って、作家を志したのであった。

 

作家になるにしても専業で食っていくのは至難の業である。

20年前当時、すでにインターネットの登場で出版業は斜陽を迎えると専らの噂であり、そこまで自身の才能にも自信はなかった。というか、作家として作品を世に出すにしても、なんのバックグラウンドもない若造が何か書いたところで「文壇のお歴々」が評価するはずもない。一定の水準をクリアしてしまえば、なんとか賞というのはかなりコネや話題作りだろうな、というのは察しがついていた。

わたしが世に出たいとするなら、なにか説得力のある肩書は必須であろう。となると士業だ、士業で大学受験だけでカタがつくのは医者だ、というのが15歳なりの考えた結論だった。

 

実際、斎藤茂吉、あるいは息子の北杜夫、中国の魯迅など、医学の畑から作家に転じた例はそれなりにある。正直、一族に医者がいないので、医者の仕事が具体的に何なのかはよく知らなかったし、理数より文系科目の方が好きだったので医学部受験はだるかったが、まあ野望のためなら少なくとも邪魔になることはない進路である。

それ以前に親がとにかくうるさかったんだけどね。医学部医学部。いま振り返っても自分たちは好きなことばっかやって生きてきたくせにそれについては口を拭って(「口を拭う」だけならまだしも、時代が悪く不遇に終わったみたいな「被害者意識」まであるらしい)息子の進路を強制するとは許しがたいものがある。結果としてアラフォーの今日まで何とか生きてこられたんだから、いいんですけど。

 

結局作家志望の話は医学部に入って、医者として研鑽()を進めるうちに、いつしか脳裏の片隅に追いやられていった。平和な世の中では、真面目に何かをつきつめて考えたりするのは好まれないし、そのような機会があったにせよ「文学」に代わる媒体がいくらでも生まれつつあったからである。異性関係に没入するようになって、そういうのがさほどウケないのを早々に理解すると、そんなものをアイデンティティの一部にしていた自身にも失望するようになった。

つまるところ、医者としても個人としても、人生修業するうえで「謎の文学意識」みたいなものが邪魔になってしまった、というのが大きいであろう。医者兼文筆家、というのは、少なくとも大正昭和の時代に比べると需要や権威は著しく低下しており、私自身もその煽りを受けて等身大の「一医師」以外の生きる道がなくなった、と言わざるを得ない。

 

(コロナ以後のX(旧ツイッター)で見かける「医者兼文筆家」の現実をみると、まあかつての作家なんてのも実態はこんな感じだったんだろうし、正体がバレて相応の待遇になっただけなのかもしれないが。作品の評価と人間性は別問題にはちがいないことは付言しておきます)

 

と言っている間に、私自身もう40の声を聴く年齢になってしまった。鏡をのぞくと髪にちらほら白いものが混じってくるようになった。

いまの境遇に全く不満がないといえばウソになるし、時たま夜中など言い知れぬ怒りが込み上げてくる。結局、かつての私が考えた「何者かになりたい」とは具体的になんであったのか。思春期特有の視野狭窄ナルシシズムで修飾されていただけで、結局は有名になって「モテたい」「チヤホヤされたい」程度の内容でしかなかったような気もする。しかし、さすがにこの年齢になると、所謂「著名人」の光と闇がくっきりとわかるようになる。凋落した「元著名人」となると悲惨なもので、いまさら無名の一市民には戻れないし、落ちぶれた「一市民以下の何か」になってしまうリスクすら付き纏っている。いまとなっては著名人になりたい、とはあまり思わない。

少なくとも人に「バカにされることは少ない」肩書と、安定した収入。中年期以降の生活には一番大切なものであろう。

人生の期待値を考えると、8割がた「まあこんなもんでよかったかな」「むしろお釣りが来たレベルで得をしたかな」と思わなくもない。

かつてキラキラしていた人が現在食い詰めて醜態を晒していたり、どんどん変な方向にいったりするのを見るのは「身につまされる」反面、ちょっと楽しい気分もあることは告白せねばなるまい。

 

自分が生きてきた、こせこせした小市民の道。生まれながらの極太実家みたいな恵まれたステイタスはなく、せいぜいが「高級奴隷」の椅子をめぐってあくせくしていた半生。才能を過信して「自分のように生きなかった人」が没落してゆくのをひそかに嗤う趣味、それが娯楽になりさほど恥ずかしいと思わない品性。こんな駄文をダラダラ書いている姿。これすべてが本来の私であった。

つまるところ、このチー太郎なる人物は、中の上くらいの捨扶持が与えられていれば、ときどき教養めかした駄法螺を吹くくらいで十分充足できる人間であり、「何者か」に本気でなるつもりもなかったのかもしれない。いや、俺は本来そんなもんではない、と今でもたまに夜半に憤激しそうになるのが何かの病状なのかもしれない。

 

そもそも「何者かになる」なんて発想が平和ボケした時代の意識な気もする。普通じゃいやだ!みたいな厨二意識以上の意味はあるんだろうか。

それより戦争で敵が攻めてきたり、内乱になったり、大災害が起きたりの心配が現実のものになり始めたし、一思いに死ねればまだいいけど、捕虜になって地雷原を歩かされて手足を一本ずつ失う、拷問で肉を少しずつ剥がれ焼かれながら悶え死ぬ、がれきの下敷きになって徐々に火が回って焼死する、という光景が現実になってしまうと、そんな問いはどこかに吹き飛んでしまうだろう。

 

中川淳一郎氏がエッセイで書いておられたと記憶するが、「おじいちゃんはね、昔こんな夢があったんだよ、まあ叶わなかったけど、その代わりお前に会えて幸せだったよ、ゴホゴホ!」と孫に語りながら死ぬ、くらいが一番幸せなのだそうである。その文章を読んだ当時はちょっとモヤモヤしていたが、現在では「そのように孫に語れる」シチュエーションが語る「諸々の背景」が十全に理解できたため、9割くらいは同意できる。今後も時折夜中にわけのわからない怒りが噴出して壁に穴をあけたりすることはあるかもしれないが、このまま「何者でもない」、せいぜいネットの感じ悪い人くらいの半端者としての生を全う、するのが身のためかもしれない。