ねずみのすもう

精神科医のねずみ

死の家の記録

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連邦はアレクサンドル・ワシレフスキー元帥の指揮下、大挙して満州に侵攻した。

 

敗色濃厚な大戦末期、戦力を南方に移転し、ほとんど「張り子の虎」状態だった関東軍はあえなく壊滅し、置き去りにされた数十万将兵・在留邦人の舐めた辛酸は記録の残すところである。

略奪暴行虐殺の悲劇は「大地の子」などの作品にも描かれる。

シベリアには数多の将兵国際法違反のまま抑留され、多くは強制労働の末に餓死凍死していった。

抑留者に対しては虐使の末に判断力を奪われた上で、共産思想の「洗脳教育」も盛んにおこなわれた。極限状態では日本人抑留者同士のリンチも常態化し、ソ連の御用聞きになった日本人「活動家」による天皇制批判も繰り広げられた。

運よく帰国した抑留者の中にも大いなるトラウマを残すこととなった。(山崎豊子不毛地帯」)

 

 

 

 

 

ソ軍軍は余勢を駆って北海道方面にも侵入、占守島守備隊の奮戦もあって占領地域はなんとか限界で食い止められたものの、北方領土はいまだ還らない。

 

戦後、日本の歴史教育は、ながく左翼主導での「反戦罪業史観」ともいうべき自国否定の歴史観の影響下にあったが、それでもことロシアに対しては日本人の反感は根強く残っていたように記憶する。

 

よくよく史実を紐解けば、(対米戦争で計画倒れに終わったとはいえ)日本側も陸軍主導で対ソ侵攻を目指す「北進論」が根強かったようで、その点はお互い様である。ソ連ヒトラーに一貫してズタボロに負けていたらこちらが侵攻していたifもあったかもしれない。

 

さはさりながら、勝利を掠め取った火事場泥棒のような振る舞いは、我々日本人に「理屈を超えた嫌悪感」を植え付けずにはおかなかったのだろう。ソ連といえば連合国としてはベルリンを陥落させナチスを直接斃した軍功を誇るが、そもそもそのナチスと組んでポーランドを分割・占拠した前歴はあたかもなかったかのような扱いである。ポーランド侵略に続くフィンランドへの侵略(冬戦争)を理由に国際連盟も除名されている。

 

独ソ戦がはじまるまでは、ナチスと並んで完全にヨーロッパ秩序の破壊者とみなされており、英仏でナチスのみならずソ連をも攻撃制圧する計画まであったらしい。

というか、英仏がギリギリまでヒトラーの侵略政策に宥和的であったのはソ連の方を地政学的リスクの高い脅威と見なしていて、ナチスがその防波堤となることを期待していたからでもある。当時の独裁者・スターリンの自国民への粛清や、ウクライナへの飢餓政策(ホロドモール)、連邦内の少数民族への迫害(強制移住政策)もきわめてイメージが悪い。

 

政治的にロシアは信ずべからず。

しかし、その文化はどうだろう。

わたし自身の人格形成に、こと思春期の読書体験に、ロシアは深く関わっていた。

医学部志望でありながら文学なんぞにうつつを抜かしていた・不真面目な受験生であったわたしはまずドストエフスキー(1821-1881)に辿り着く。学生運動の世代くらいまでは若者は「通過儀礼」として、ドスト氏の洗礼を受けるべきという風潮はあり、40年ばかり遅く生まれたわたしも「先例に倣った」。

 

罪と罰」は高1のわたしにはまだ早かった。

 

作家の中村文則が読売新聞で推していた「地下室の手記」は、陰鬱な受験勉強の気分に微妙にマッチした。

今でいう中年子供部屋おじさんみたいな人は1863年当時、日本でいえば幕末の動乱だった時期のペテルブルクにもいたらしい。偶然転がり込んだ遺産で地下室にこもる暮らしを始めた中年男が、なぜ自分がこうなったかつらつら自分語りをする。

2chの暗い内容のコピペを連投するような内容である。未練がましい半アウトサイダー的社会評論は17歳のわたしにかなり刺さった。

 

 

そして大学入学を控えた春休みに買ったのが「死の家の記録」だった。

 

ドストエフスキーは、26歳「貧しき人々」での文壇デビューこそは華々しかったものの、その後スランプが続き、半ばヤケになって参加した社会主義活動によって逮捕され10年間のシベリア流刑を体験している。

 

その作者自身のシベリア監獄体験をもとにした作品だが、主人公は妻殺しで実刑を食った青年貴族のアレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフという設定に置き換わっている。「死の家」とは、主人公ふくめた流刑囚が収容された(おそらくオムスクの)監獄のことである。

 

 

 

監獄のつねとして、娑婆でそれなりの地位にいた囚人は苛烈なイジメの対象になりがちである。ことに元貴族は平民出身が大半な囚人から執拗な攻撃の対象になっていた。ゴリャンチコフははじめは他の囚人に白眼視されながらも、重労働に耐え、囚人=不幸にも最下層に落ちてしまったロシア民衆たち と交流する中で次第に打ち解けてゆき、やがて10年が経過する。

 

いわゆる「縦の旅行」を経験することで、それまでモスクワやペテルブルクの「西欧化された」貴族社会しか知らなかった主人公は、ロシア人の、ひいては人間についての深い考察に目覚める...というのがあらすじである。

 

(余談ではあるが、この手の「収容生活の極限状態から深い考察に至る」のプロットは、90年後のフランクルのナチ収容所体験を描いた「夜と霧」にも受け継がれている。じっさい「夜と霧」には「死の家」からの引用がところどころ出てくる)

 

ここで描かれている19世紀後半のロシア庶民たちは、知能に問題があったり貧困から不幸にも犯罪に加担してしまったケースから純然たるシリアルキラー尊属殺人を犯した元貴族、ポーランド系、植民地人(チェルケス・ダゲスタン・タタール人)など、幅広いのだが、意外にも数々の凶悪な犯罪に加担したはずの彼らは一面では情に厚く、涙もろく、じつに人間臭い。

 

およそ犯罪の名の付くもので、ここの例のないものはないといって過言ではないだろう。監獄の住人の中心をなすのは、民間人の流刑懲役囚(ススイリノカートルジヌイ)だった。

 

囚人たちはそろって、悪罵にかけてはとんでもない達人なのである。まさに彼らは凝りに凝った芸術的な口調で罵り合っていた。彼らの罵言の応酬ときたら、いわば一種の学問にまで高められていて、侮辱的な言葉で相手に勝つというよりも、むしろ侮辱的な意味・精神・思想によって相手を凌駕しようと競っていた。

 

「俺たちはどやされ続けてきた人間だから」

五臓六腑もボロボロで、それで夜中に叫ぶのさ」

 

収容所長は虎だか山猫だかのあだ名をつけられた・サディスティックな陸軍大佐である。違反者はじきじきに鞭打ちとなり半生半死となる。たびたび死者も出るため、囚人たちの間では、鞭打ち人の行列を潜り抜ける際の「体位」だの、何発目を超えたらかえってラクになるだの、致命傷を避けるノウハウまでもが口伝されている。

 

囚人同士の諍いや密告、酒タバコの密売などは日常茶飯事である。蒸し風呂のような人間地獄だが、なぜか不思議な「秩序めいたもの」も保たれている。

 

ある晩、子供をさらって殺した快楽殺人犯が事件のあらましを自慢げに語りだしたことがあった。話題に飢えているサイコパシーな囚人たちのことだから、爆笑が巻き起こるかと思いきや、一斉にブーイングの嵐となり、彼は黙らざるを得なかった

(ただしそれは「義憤に駆られた」からではなく「そういう話をする決まりがなかったから」と主人公は考察する。義侠心ともまた違う暗黙の了解、あくまで「色調(トーン)」のなせる業である、と。そういうものは監獄のみならず人間社会に多くあるのではないか)。

 

貴族の囚人仲間の逃亡事件など、波乱が巻き起こる中、10年の刑期を終えて、ゴリャンチコフが釈放されるシーンで話は唐突に終わる。

 

私は心の中で獄舎をとりまいている丸太の柵に別れを告げた。当時私はこの不愛想な柵にどれほどおびえたことだろう。

...それにしても、この柵の中でどれほどの青春が理由もなく葬られ、偉大な力が無駄に潰えたことか。こうなったら何もかも言おう。ここにいたのはまれにみる人々だった。もしかしたらわがロシア国民の中でも、もっとも才能と力に恵まれた人々だったかもしれない。

 

足かせが外れた。私はそれを拾い上げた。最後に一度手に取って眺めてみたかったのだ。こんなものが今の今まで自分の足についていたことに改めて愕然とする思いだった。

「まあ達者でな、達者で!」囚人たちはぶっきらぼうだが何か満足しているような口調で言った。

そう、お達者で!自由、新生活、死者の世界からの復活...。なんと素晴らしい瞬間だったろう!(完)

 

釈放後、待つ者もないモスクワに戻る気も失せていたゴリャンチコフはシベリアの地方都市で隠棲していたがほどなく病死する。

地味な暮らしぶりだったため死後は住民からは急速に忘れ去られるあっけない末路だった。全編は、彼の残した記録を偶然ひもといた「無名作家」による後日談として語られる。

 

結局ここに描かれた「ロシア民衆」なるものの本質は何回読んでも判然としない。

 

犯している罪だけを見れば殺人強盗強姦はなんのその、彼らはそれを内心反省しているそぶりも薄く、監獄ではひたすら囚人同士の悪罵や嘲笑、規律違反と鞭打ち・体刑の繰り返しである。外部から見たらむしろ純然たる悪でしかないだろう。

78年前の夏に裏切って満州に攻めてきたソ連軍人たち、現在ロシアがウクライナ侵攻でやらかしているその悪行は、まさにこのような「ロシア民衆」上がりの兵士によって行われていることは想像に難くない。

 

しかし、ゴリャンチコフは囚人たちが娑婆で犯した罪の実態をつぶさに知り、自身も監獄内でひどい迫害を受けたにもかかわらず、彼らの人間臭い一面、貴族も平民もなく最後は喜怒哀楽を分かち合えた体験を彫り下げて「もっとも才能と力に恵まれた人々だったかもしれない」と記す。

 

かつてソ連侵攻で辛酸を舐めた同胞の被害、現在進行で行われているウクライナでの秩序壊乱行為を思うと、ふざけるんじゃねェボケ、とブチ切れたくなる反面、いったいこれはどうしたことかと困惑したくもなる。

 

ロシア人、ひいてはある民族、ある国民、ある人間には必ず二面性があるのだろう。仲間を慈しむ心、四季や自然を愛し涙する心と、他者を人間とすら見なさず平然と蹂躙する心というのは、どうやら全くの別物というわけでもなく「地続き」らしい。

 

2014年のクリミア併合が始まる前は、21世紀のロシアはスターリン時代とは別物であり、徐々に民主平和国家に近づいてゆくに違いないという淡い期待があった気がする。

実際2000年ころ、プーチンはそれまでの旧態依然としたロシアを革新するリーダーとして日本のメディアにも好意的に取り上げられていた。

 

今回のウクライナ戦争についても、すでに実効支配に置いた地域から浸透・同化政策を行うくらいのことは想定していたが、まさか初戦から首都制圧をめざす世界大戦型の「全面侵攻」をはじめるとは考えられていなかった。結局、彼らの生活スタイルが「やや欧米化」しただけで、国家としてのロシアの性格は前近代からまるで変っていないことが明らかになってしまった。

 

わたしがロシア文化を「楽しんで」いたのは、どこかでかつての侵略国家としてのロシアは過去の遺物だと思っていたからである。自国領をいまなお不法占拠している国相手に呆れた平和ボケである。現実の状況は刻一刻と泥沼化している。

 

不快な事実ではあるが、戦争への支持率をみても、悪いのはプーチン政権であり「ロシア民衆」は善良、というのは考えづらい。1933-1945のドイツはナチスという暴力団に乗っ取られていただけでドイツ人に罪はない、というのに似た詭弁だろうと思う。

おそらく多数派のロシア人はウォッカを嗜み、仲間を愛おしみ、歌い踊り、すべての旅行者を歓待するまさにその「純朴な心」を以てウクライナの併合を支持しているのである。

 

ロシア文学の巨匠であるドストエフスキーは、最終的には正教会の信仰に基づいた「大地賛美主義」を唱えることになるが、たぶん160年経った今回のウクライナ侵攻もそういった汎スラヴ主義めいた思想の延長にあるものだろう。

彼がいま生きていたら高確率でプーチンの戦争を支持していたのではないか。シベリアの「死の家」の囚人たちの、野に咲く花を美しいと思う心が強姦や殺人と地続きだったのと同様、また偉大な巨匠の思想も侵略戦争と地続きだったりするのである。

 

たぶんこの先、気楽にドストエフスキーだのチェーホフだのを楽しむ余裕はなくなるかもしれない。いまや日露は事実上の「準敵国」みたいになっているし、生半可にロシア精神に「理解を示したりする」と売国奴扱いされる未来が近づいている予感もする。舌禍筆禍時代の到来である。

そのころにはこのブログも閉鎖されているであろうし、きっとわたしもマジョリティーに媚を売りながら御用ツイートでもしているだろう。そうなる前の、以下はわたしの中二病時代の供養である。同様「死の家」からの抜粋。

 

ダゲスタンのタタール人は3人で、血を分けた兄弟だった。

末弟のアレイは弱冠22歳で、見かけはもっと若かった。

なかなかの美男で気取りがなく、賢そうであると同時にいかにも善良純真そうなその顔を一目見たとたん、私はこの青年のことがすっかり気に入ってしまい、運命がほかの誰でもなく彼を隣人にしてくれたことに大いに感謝したものだ。

(注・このダゲスタン・タタールの兄弟はアルメニア商人を襲って殺害し逮捕されていた。アレイは兄に命じられるまま、わけもわからず殺人に加担してしまったらしい。)

 

私はこのアレイを非凡な人物と思っていて、彼との出会いを人生で最良なもののひとつとして思い出すのである。世の中には生まれつき美しい、神の恵みをさずかった天性というものがあって、そうした天性がいつか悪しきものにかわるなどということは想像もつかない。そういう天性の持ち主は、いつも安心してみていられる。私は彼のことはいまでも心配していない。今彼はどこにいるのだろうか?

 

「なあアレイ、お前はきっと、故郷のダゲスタンではどんなふうに今日の祭日を祝っているか、考えていたんだろう?きっとお前の故郷はいいところなんだろうね?」

「うん」アレイはいかにもうれしそうに答えて目を輝かせた。「でも、どうしてわかったの?俺がそんなことを考えていたなんて?」

「きっと今頃はいろいろな花が咲いて、さぞかし天国のようだろうね」

「だめだめ、思い出させないで!」

「お前には姉さんがいたかい?」

「いたよ、それが何か?」

「きっと姉さんは美人なんだろうね、お前に似ているとすれば」

「俺に似ているだって!姉さんみたいな美人はダゲスタン中さがしたってどこにもいないさ。あんただってあれほどの美人は知らないよ!俺の母さんも美人だったからね」

「ほう、で、お前の母さんはお前をかわいがってくれたかい?」

「当たり前じゃないか。きっと母さんはもう、俺の身の上を悲しむあまり、死んでしまっているに違いない。俺は母さんのお気に入りで...姉さんよりも、ほかの誰よりもかわいがられていたんだ。その母さんが昨日夢に出てきて、俺の身の上を嘆いていた」

 

「ねえアレイ、ひとつロシア語の読み書きを身に着けたらどうだ?それがシベリアで、のちのちどれほど役に立つかわかるだろう?」

「それは身に着けたいさ、けどどうやって?」

「よかったら私が教えてやろうか?」

「ああぜひ、お願いするよ!」

 

私たちは次の晩からとりかかった。私の手元にはロシア語の新約聖書があった。獄中でも許可された書物である。この本一冊だけでアレイは何週間かで見事に読むことを覚えた。3か月もすると、文章語を完全に理解するようになっていた。

あるとき私は彼と一緒に「山上の垂訓」を全部通しで読んだ。気が付くと彼はいくつかの個所をなにか、特別な感情を込めたような調子で読み上げていた。

「イエスは聖なる預言者で、神の言葉を告げたんだね。すばらしいことだ!」

「許しなさい、愛しなさい、辱めるな...。敵を愛しなさい。ああ、なんていいことを言うんだろう!」

 

アレイが監獄を出て行ったときのことは決して忘れない。

彼は私を監房の裏へと連れて行って、そこで私の首にかじりつき泣き出したのだった。それまでは一度も私にキスをしたこともなければ、泣いたこともなかったのである。

「あんたは俺にたくさんのことをしてくれた」

「俺の父さんでも、母さんでもできないほどのことをしてくれた。あんたは俺を人間にしてくれたんだ。神様がご褒美をくれるだろう。俺はあんたをいつまでも忘れない...」

どこに今お前はいるのか。私の優しい、かわいい、かわいいアレイ...。

 

読んでいると甘たるい、同性愛的なものを感じる。腐女子が喜びそうなくだりである。この「ダゲスタンのアレイ」の挿話自体は短いもので、全編におおきな影響は与えていないし、わたしにしても「単に引用してみたかった」以上の意味はない。

 

余談ではあるが、「カラマーゾフの兄弟」のキーパーソンである善良な神学校生徒のアリョーシャは、この「アレイ」が下敷きになっていそうではある。

 

現在のロシア軍の中にも、純粋に正義の戦争と信じてか嫌々かは知らないが、侵攻に参加して戦病死あるいは拷問死し、あるいは退却を許されず味方に殺害され、屍は野に打ち捨てられ、その死は顧みられることのない幾多の「アレイ」もいるのだろうと思う。

時代錯誤の親露派の情報発信は笑止としか言いようがないが、十把一絡げにロシア軍の戦死者を嘲弄するような自称「軍事通」のツイートにも、人間というものをなにか根本から誤解した・薄気味悪いものを感じてミュートしてしまった。

 

だとしてもロシアの戦争に大義はないと個人的には考えるが。

 

繰り返しになるが、以上は、ふたたび以後100年は正常化しないであろう日露関係への失望と、かりにもかつて一時期、精神的な危機にあったわたしを支えてくれたロシアの精神性みたいなものへの感情の供養である。