ねずみのすもう

精神科医のねずみ

夢の話

将来の夢、ではなく夜見る「夢」の話である。

 

わたしが勤務していた病院の当直室で、かなり前に「医師が」突然死したという噂があった。

 

日中から体調不良を訴えて早退したがっていたのに、病院側が無理やり当直をさせたら朝になって死亡しているところを発見されたらしい。遺族が怒って訴訟になったがその顛末は伝えられていない。病院自体そのうち経営が傾いて他の法人に買収され、スタッフ・経営陣は一新された。

建物自体は古いまま残され、そこに週1でわたしが来て当直をしていた。

 

ある晩のことである。

寝ていたらドアをノックされて目を覚ました。時計を見たら深夜の1時半だった。普通、病棟からのコールは院内PHSでかかってくるのでノックというのは異常事態である。暴漢でも侵入し、慌てた事務当直か誰かが知らせに来たのか(実際、ほかの病院でそういう事件があった)という想像が脳裏をよぎった。こちらもガバと跳ね起きて「ハイ!」とドアを開け応じると、廊下は真っ暗で誰もいない。

聞き違えたか?寝ぼけていたのか?とベッドに戻るが、しばらくうつらうつらしているとまたドアがノックされる。くっきりと、なにか怒っているような「異常事態だ!早く出ろ!」と言わんばかりの強めのノックである。

今度は夢ではない。まちがいなく現実だ...と跳ね起きてドアを開けると、やはり誰もいない。さすがに背筋が寒くなった。

どういうことか?いや、ノックの主はノックだけして「急ぎこの場を離れた」のかもしれない。だとしてもそもそも誰が?思い出したが事務当直は夜10時に帰宅しているルールである。混乱しているとPHSが鳴る。病棟からのコールである。重症で報告が上がっている高齢の入院患者の心拍が下がってきたから1度診てほしいという内容だった。

 

病棟に行って、一応「誰か当直室まできてノックされました?」と看護師に聞いたが、誰もしていないという。やだー、先生寝ぼけてるんでしょ、と「いかにも人あしらいの上手そうな」小太りでベテランのおばさんナースがいう。診察を済ませて当直室に戻ったが、もしかしたら全部夢で寝ぼけていただけかもしれない、と思って再び寝入った。

 

ギギー、とドアが軋む音で目が覚めた。見ると半開きになったドアから初老の男がのぞき込んでいる。見覚えのない顔で、事務当直ではない。不審者である。

誰だアンタ?誰に断って...と声を荒げたところでふと我に返る。夢である。今日はなんだか嫌な日だな、と思ってまた寝入ると、今度はガサゴソという音で目が覚める。みると、入り口のロッカーでさっきの男が着替えをしている。さっきから何なんだあなたは?どこから入ってきた!?と問い詰めると、

「先生は僕のことをご存じですかね?」

「知るわけないでしょう、こっちが訊いているんだ」

「そのう、昔ですね...お聞きになっていませんか?ここで死んだ人間がいるって...」

ニヤーッ浮かべた薄笑いが不気味で、怖いというより妙に勘にさわった。死んだ人間が亡霊になって出てきたとでもいうのか?俺は遊びに来てるんじゃない、いい加減にしてくれ!と侮辱された気分でとにかく腹が立ち、人を呼ぼう、誰も来なければ俺自ら取り押さえてやる、と頭に血が上ったところで目が覚める。

 

しばらく横になったままボーっとしていた。なにがなんだかよくわからなくなったところで、枕元にいつしか若い女が立っていた。

こういう病院ですから、まあたまに変なことが起きるんですよね。「部屋に入られる」のが嫌ならカギを閉めておきなさいという。ご助言ありがとう、でもあなたはどちら様で...?と顔を上げるともう女性はいなくなっていた。

ここまでくるともう異世界の雰囲気に馴染み始めてきたのか、あまり動揺しなくなっていた。たしかに指摘通りだな、まずはやることをやらねばとカギを閉めて、以後はノックされても一切出ないと心に決めた。病棟からの呼び出しはあくまでPHSにかかってくるのだし、それで不足なないはずである。

リンゴの花ほころび

川面に霞たち

ずいぶんときれいな歌声が聴こえてきた。合唱である。有名なソ連軍歌の「カチューシャ」だ。

跳ね起きて窓の外をみると、ちょうど玄関口の明かりに照らされて、どこから集まってきたのか、子供たちの一群が歌っていた。みんな綺麗な顔立ちをしていた。ちらほら白人の子も混じっているようだ。窓越しに手を振ったら、気づいた何人かが手を振り返してくれた。

 

またベッドに横になってうつらうつらしているうちに、何回かさっきの女性がまた枕元に現れ、教訓めいたことを言っていたような気もする。

何がどこまで夢やら現実やらわからない。「幽明境を異にする」というが、もしかして生と死の境というのもこういう夢幻の境地なのかもしれない。もしかしてこれは死ぬ前の幻覚だったりするのだろうか。しかし死んだとして...さっきの男のような、あれがもしここで不幸にも亡くなった医師の亡霊かなにかだとするなら...成仏できずに生者に迷惑をかけて喜ぶような顛末にはなりたくないものだ。そもそも自分にはまだやりかけの仕事が...。

 

PHSの音で目が覚めた。出ると、耳慣れた病棟ナースの声がする。今度こそ現実である。先ほどの入院患者の心肺が停止したという。身寄りもない患者だが、これから死亡確認をせねばならない。時計はもう朝5時を回っていた。

 

やれやれ、とことん変な気分になる晩だったな、いったいどこからどこまでが現実なのか。考えると全部夢だったように思うが、夢の中で夢をみて、夢にうなされる自身もまた夢、のような「夢のマトリョーシカ」みたいな体験である。

苦笑しながら部屋を出ようとすると、ドアが開かない。みるとドアに内側から鍵がかかっていた。夢じゃないぜ、と誰かに囁かれた気がして背筋が寒くなった。

 

病棟に行って、業務を終えてから一応顛末を話したら、先生もやられましたか、あそこに泊まると変な夢だか幻を見る先生が多いので、院長なんかは嫌がって自室に寝袋持ち込んで当直してますよ、とベテランの男性ナースがカラカラ笑いながらいう。こちらは笑う気分ではないので、日勤の医師がくるまでの間、当直室は出て医局で過ごすこととなった。

 

昼になって外来が済んだタイミングで当直室をこっそり点検してみたら、ちょうど死角になっている部屋の隅に盛り塩があり、微妙に黒ずんでいた。

 

以上が夢の話である。ちなみに私自身は、亡霊だか狐狸の類は信じていない。ただ、昔読んだドストエフスキーの「罪と罰」で、「死が近くなった人間は現世と死後の世界の境があいまいになって、死んだ人間の姿を見やすくなる」ようなことをスヴィドリガイロフが言っていた。

 

若い時は蕩児として鳴らし、中年になってなお身体の衰えを認めず主人公の妹を付け回し、最後は拒絶され自殺する役回りの中年男である。本人も何やら亡霊めいた雰囲気を漂わせており、主人公が「悪夢から跳ね起きた」タイミングで枕元にヌッと立っているシーンが初登場である。

 

私も年を取った、というのは早いが肉体のピークは過ぎた。加齢によって睡眠が浅くなるのか、最近はこのように断眠で変な夢を見ることが増えてきた。たぶん死ぬ間際もこんな感じの滅裂な体験をしながら、微量の恐怖の混じった・憮然とした感情を抱きながら沈んでいく予感がある。