ねずみのすもう

精神科医のねずみ

不幸の中の幸福

「不幸になりたがる人たち」

わたしの私淑する精神科医春日武彦(1951~)先生の著作のひとつである。

1年ほど前のエントリーでも書いた気がするが、人間というものが口では幸せを望みながら、「ひそかな自滅志向」に酔いながら生きているのではないか、という考察の書である。そもそも「幸せの定義」があやふやなのは置くとして、人間が無意識のうちに小さな「自滅」を志向しているのではないか、というのは、30数年生きてきて実感が強くなっている。

 

たとえばツイッターである。不用意な発言をすれば、たとえフォロワー数十人程度だろうと鍵垢だろうと炎上するリスクは2013年ころの「バカッター」騒動で明らかなのに、なぜ今日に至るまで似たような事例が後を絶たないのか。

 

いや、最近の炎上を見ると、かつてのバイトテロのごとき「思慮の足りない人物がうっかり」パターンももちろんあるが、分別盛りの壮年以上のユーザーが、うすうす炎上の気配を察しつつ「敢えて」燃料を投下しているケースが目につく。中には、政治やジェンダーといった、「いかにも」火中の栗といったテーマで煽っているパターンもある。

 

わたしはここに、存在を認知されない空虚感よりは、たとえ誹謗を受ける可能性があっても「存在を知らしめる」「不幸・不快には違いないが生きている実感が得られる」炎上の方が百倍マシ、という、人間のいじらしい一面を見る。

 

これまでの人生において深く心を傷つけられた人にしてみれば、今さら思いやりのある人々に囲まれた、穏やかな日々としての「幸福」など得られるとは思っていないし、得られたとしてもどこかウソ臭さがつきまとう。ある若い日に自分を手ひどく振った恋人が、その後「性的魅力が衰えてから」手のひらを返して言い寄ってきたときみたく、何を今さら、といった気持ちもあるのだろう。それよりかは、あえてピラニアの群れに身を投じ、誹謗攻撃の応酬をしてこそ、「不幸に身をさらしてこそ」生きる実感が湧いてくるといった心情がありはしないか。

 

瀟洒なマイホームに手入れの行き届いた庭、温かい家庭に休日はピクニック...みたいな、絵にかいたような幸福を得られる人はそんなに多くはない。かりに実現したとしても、それは美しいがコストの割に退屈な面もあり、いつ壊れるかわからない脆さや不安も付き纏う。ドラマチックさに欠ける点でもどこか「不幸の萌芽」を宿したものとなる。それより、薄暗い情念の渦巻く空間のなかで、想定内の侮蔑や憎悪を応酬し合う方がよほど気楽で生きがいがあり、(不毛で発展性は乏しいにせよ)屈折した楽しみを生ぜしめ得る...そう考えるひとがいてもちっとも不思議ではない。

 

シェイクスピアの「マクベス」の冒頭、荒野で魔女たちが

 

「きれいは汚い、汚いはきれい」

(fair is foul, and  foul is fair)

 

と謎の合唱をするシーンがある。

蓋し名言というべきで、ひとつの概念は正反対の概念にいつしか通じる。ここまでくると「幸福は不幸、不幸は幸福」なのである。

 

世間には幸福そうだが不幸な人、不幸そうだが幸福なひとがいかに多いことだろうか。

(春日武彦「幸福論」)

 

ここまで極端な例を描いてきたようだが、誰でも時にはろくでもない時間潰しに耽ったりと「プチ自滅」な振る舞いでガス抜きをしたりするものである。もしかすると、生活の中に巧妙に小さな「不幸」を織り交ぜることは、意外にも幸福への要諦なのかもしれない。