ねずみのすもう

精神科医のねずみ

「教養」についての雑感

現代ほど「教養」という言葉がときに称揚され、時にpgrされている時代はないのではないか。

 

ときは明治大正・旧制高校のエリート教育華やかなりし頃、「教養」はステイタスであった。学生は古今東西の著書を読み漁り、ちょっとイイ感じになった婦女子を「Mädchen」と呼び、森鴎外の「雁」でみるようにいきなり「Silentium!」と叫ぶなどドイツ語、ラテン語にも通じていた。あるいは通じている風が良しとされた。ドイツ浪漫派や、時代が下ってトーマス・マン、ヘッセあたりの大河小説を読破することが人格の陶冶につながるとされ、そうした雰囲気のもと過ごした人々はいずれ有為の人材としてしかるべき待遇を与えられた(らしい。わたしの生まれる半世紀以上前の話なのでよく知らないが)。

 

こういう、古今東西の古典や語学に通じることが知的人種の証でありカッコイイという風潮は、戦後の1970年頃の学生運動まで続くこととなる。実際、ギリギリ学生運動体験者くらいまでの作家の文章を読むと、ボキャブラリーの豊富さといい、古典からの引用の多さ、読んでいて引き込まれそうになる文章の香気といい、それ以降の作家とは明らかに断絶がある。おそらく読書量がまるで違う。たしかに「教養」は、批評活動を豊かにし、青少年を勉学に目覚めさせるのに一定の功績があったのである。

 

その後の「教養主義の凋落」については語るまでもないと思う。要は「イケてる」の基準が、おそらくは学生運動の退潮と経済成長につれて急速に変わったのである。価値観はどんどんポップでライトになった。

 

私が物心ついた平成の初期ころはバブルの真っ盛りで、たまたま観たテレビでは半裸の姉さんがお立ち台で踊っていた。小難しい言葉を使う文化はどんどんダサいものになり、バブル崩壊後もつい最近まで、「教養」などという言葉は死語に近かった気がする。

 

それが最近、成長が頭打ちになって中間層が崩壊、これからは人間の評価軸が「育ち」「文化資本」といった生来のものになる、みたいな感じになって、突然「教養」という言葉にスポットライトが当たった感がある。

 

本屋にいっても最近はやたら教養を前面に押し出した本が目につく。生活や資産を守るためのキーワードとして、ふたたび教養という言葉が復権したかのようだ。

 

しかし令和の時代になって、いまさら教養とは何だろうか。旧制高校の生徒が「ああ玉杯」を歌い、栄華の巷を低くみていた時代は遠いむかしのことである。

 

英語が最低限話せて、プラトーン以来のリベラル・アーツに習熟し、すべての年代や国籍の人と一通りの会話ができる「人間の幅の広さ」だろうか。単に知識が豊富なだけでなく、引き出しの多さが一種の「凄み」みたいなオーラとなって放散され、まわりがタジタジとなってしまう人物像だろうか。

 

じっさいそんな人物がいたら感嘆したくなる反面、TPOを間違えると、鼻持ちならない嫌な奴になってしまいかねない危うさもある。実際、最近あった某政治ニュースみたく、ひとに向かって「教養がない」とかいっちゃう人を見ると、教養とは...というお気持ちになってしまう。

 

皮肉なことに、教養が見直されつつある一方、いわゆる旧来の文化エリートでありながらへんな発言をする人が目につくようにもなったのである。昔の中国王朝の「腐儒」に近い感じだろうか。おのれの学識を誇り、嫌いなひとをdisることが主目的になった瞬間、「教養」は一気に腐臭を放つのである。

 

ところで中島らもは、教養とは「一人で時間を潰せる能力のこと」という言葉をのこした。

また、中島つながりというわけではないが、同世代のシンガーソングライター、中島みゆきの「勝手にしやがれ」(1977年「あ・り・が・と・う」収録)ではこういう歌詞がある。

 

部屋を出て行くなら
明かり消して行ってよ
後ろ姿を見たくない
明かりつけたければ
自分でつけに行くわ
むずかしい本でも読むために

 

ギリギリ学生運動時代の若者の淡い恋をえがいた歌だろうか。

キレ気味な題名とは裏腹にまったりした明るい長調だが、全体的にアンニュイで、別れの気配がうかがえる曲である。

 

 「むずかしい本」とは、なんとなくショーペンハウエルとかデカルト、あるいはマルクスマックス・ウェーバー、文学書ならドストエフスキー高橋和巳とか埴谷雄高の「死霊」あたりな気がする。反体制にかぶれた男は、日夜こういう本から得た知識やフレーズをさかんに用いては地下喫茶で仲間とダべり、女も細かい知識に興味はないものの雰囲気に惹かれて付き合ったのだろう。

 

さすがは国民的歌手の詞というべきか、男女のすれちがいとともに、若い時代の終わり、虚無感、いろいろカッコつけてはみたものの中味は空っぽにすぎなかったという自嘲めいた複雑な感情が「むずかしい本」というワードにみごとに集約されている。

 

ここでは、半裸の女の子がボロアパートの部屋で男を見送る、どこか間の抜けた淋しいシーンにおいて、「教養」がちっぽな小道具として無造作に転がっている。

教養とは本来孤独で、ちょっと恥ずかしい小ネタに近いものかもしれない。