ねずみのすもう

精神科医のねずみ

アザーンを聴かせて

少し前、「自分と同年代の人に、青春時代にハマった曲を教えてもらう」というツイートを放ったところ、意外にも皆さんから反響があってびっくりした。

考えてみれば、「歌」というのはおそらく「言語」より古い。

恐竜のマイアサウラが、頭部にある突起みたいな器官で「歌」みたいなものを発し、コミュニケーションをとっていたのではないか、などという俗説めいたものを子供のころ図鑑で読んだことがあるが、もしかしたら人類の発生よりも古いものかもしれない。

メロディーには理屈を超えた説得力があり、魂を震わせる。ことに多感な青春の一時期、さまざまな鬱屈を癒してくれた「歌」があるとすれば、それはその人にとって宗教や信仰に近いものとなる。フェスとかライブといったものは、日常の憂さを忘れさせるのみならず、その人の信仰する「歌=神」を祀る宗教的行事に近いものかもしれない。

私の放った「あなたの青春の一曲を教えてください」というツイートは、おそらくは「あなたという人を教えてください」「あなたの青春時代の神を私に示してください」という、根源的な問いに他ならなかったのである。反響がいつもにまして多大だったのも、むべなるかな。実際に教えられた曲を聴いてみると、なんとなくそれを推した人物の人となり、ティーンの頃の鬱屈、仲間との交流の場面、自室の風景、教室でどう過ごしていたか、などの背景がうっすら伝わってくるのも興味深かった。ツイッターは発信より、教えを乞う「受信」のほうが千倍有意義である。

 

話は飛ぶが、13世紀の神聖ローマ帝国(ドイツ)にフリードリヒ2世という皇帝がいた。

ドイツ皇帝でありながら、幼少期を帝国の飛び地みたいなシチリアパレルモで過ごし、宮廷に出入りする先進的なイスラーム文化人の影響下で育った。当時としてはリベラルな思想を持った「玉座の最初の近代人」(ヤーコプ・ブルクハルト)と称された人物である。異教徒への排撃が当たり前だったヨーロッパにあって、異文化の理解に努め、第6回十字軍でエルサレムに赴いたとき、街のイスラーム教徒が皇帝をはばかって「アザーン」(礼拝への呼びかけ、イスラームでは音楽ではないとされるが多分に音楽的な朗詠)を自粛しているとかえってそれを不快がり、自分にも聞かせろと主張したという逸話が残る。

当時のヨーロッパの中では著しく「空気の読めない奴」という評価であり、実際教皇庁や騎士団からは総スカンを喰い、その後の半生も皇帝としては恵まれたものではなかった。実際、ドイツ本土の内政にはあまり関心がなかったらしく、彼の無策もあってその後ドイツは分裂の一途をたどり、皇帝の選出すらできない「大空位時代」というダメダメ時代に入る。政治家としては毀誉褒貶のある人物ではあるが、彼のエルサレム入城の際の「アザーンをきかせろ」要求、人の信仰の何たるかを「音楽的なもの」を通じて知る姿勢というのは、多分に示唆的なものではないだろうか。

言葉による応酬が、結局議論の体裁を借りた傷つけ合いみたいなのに終始している様はツイッターで散々みてきた。他人事のように言っているが、恥ずかしながらときどき私自身も参戦してしまう。あれは見ている方まで気分を荒ませるものに違いない。言葉は大切だが、言葉だけではその人物の情念、生きてきた軌跡みたいなものは伝わらないことも多いのだろう。それは最終的には「歌」や「音楽」として表出されるものかもしれない。多分、個々の人物にその人ならではの「アザーン」みたいなものがあるのだろう。私自身はフリードリヒみたいな大物でもないし彼レベルの学識もないが、余裕のあるときは皆さんの「アザーン」をきかせていただきたいと思っている。

2019年の感想としては、そんなところです。