武田泰淳(1912~1976)という作家がいる。真冬の北海道の洞窟に閉じ込められた船員同士が人肉食をする「ひかりごけ」など、人間の暗部を描いた作風で知られる。
中学生の時、現代文の教師が「ひかりごけ」は名作だからぜひ読むようにと勧めていて、新潮文庫版のを買った。表題作の「ひかりごけ」も面白かったが、収録作品中の別の短編「異形の者」の方が後々までかなりの印象を残したためここに書き残しておく。
作者を幾分かモデルにしたとみられる主人公の「私」は、若干二十歳の見習い僧侶である。それなりに裕福な寺の息子である「私」は、当時流行りの社会主義の学生運動などにかぶれつつ、なんとはなしに実家の寺を継ぐための得度修行に入る。
(ちなみに医学部にも何学年かに一人は実家が寺の者がいて、夏休みに実家で修行するために突然坊主頭になったりしていた。
医者と葬儀屋の両方ができるなら世話はない、などとからかわれていたものである。)
私が僧侶になったのはうまれつき自主独立の精神が欠けて居り、かつその頃他に何と言ってなすべきこともなかったからであった。一念発起したのでも、世をはかなんだのでもない。一番安易の道を選んだのである。
(中略)
俺は長続きしないと知りつつ仕方なしにやっているのだぞ、という態度を見せながら、下賤高級あらゆる事件に興味を抱き好奇心を起こす、そんな男が、魚屋の子が魚屋になり、地主の子が地主になるようにして、僧侶と言う職業人になったのであった。
勉強ができたから医学部、みたいな人物像に近いものがある。いつの世もちょっと勉強ができて実家が小金持ちな若者とはこんな感じなのだろう。
ところで、一口に僧侶見習いといってもいろんな人がいる。
「私」のようにいつまでも遊んでいられないから程度のモチベーションの者もいれば、貧窮から身を起こして、食うためにかじりつくようにして修業に入る者もいた。
後者のグループにいる「穴山」という、学歴もなければ生まれつき孤児の、狂暴な性欲を滾らせた不気味な青年が「私」を目の敵にし始める。
「きさまは、何か本でおぼえた哲学で俺たちを見下して批判してるような面してるが、そうは問屋がおろさねえんだ」
「俺がどんな気持ちで生きているか、どんなことを企んでいるか、甘やかされた餓鬼に何が...」
その後「私」と穴山の関係は破局を迎える。
きっかけは寺院の監督が、態度のよくない修行僧の一人を殴打して侮辱した事件だった。その対応をめぐって、加害者への私刑を叫ぶ穴山が一時イニシアティブを取るが、しばらく様子をうかがっていた「私」はタイミングを見計らって非暴力を主張。「ガンディーみたいにハンストをすべし」と名演説をぶって一気に僚友たちの支持を取り付けてしまった。
いかにもインテリらしい、穴山が一番嫌いそうな手法を以て彼の面目を丸潰れにしてしまったのである。
結局事件そのものはグダグダに収束したが、「私」と穴山の関係はそのままでは済まなかった。修業が終わり、正式に僧侶として認められる「誓いの儀式」が始まろうとするとき、最後の面目までつぶされた穴山が「私」に近寄り、決闘を申し込んでくる。「私」はそれを受ける。
ヒョロガリっぽい主人公が太刀打ちできるのかという疑念は残るが、屈強な穴山は片足が悪いという記述があるため、ハンデを考えると五分五分なのだろう。
「誓いの儀式」は、何事もなかったかのように進行してゆくが、「私」がローソクの灯りだけが頼りの真っ暗な仏殿の中で、改めて居並ぶ仏像をまじまじと見直すラストシーンがとにかく圧巻である。
国宝に指定され、何回の火災にも焼け残ったとつたえられるその仏像は、人間の魂を吸い寄せてしまう不思議な眼力をもっているといううわさであった。奈良にしても鎌倉にしても、巨大な仏像の名作はすべて、荘厳にして温和な表情のどこかに、この世の生物すべてを軽蔑するとまでは言えないにしろ、支配し自由にとりさばく一種の強烈さをただよわせているものである。
...つい数か月前も、この大殿の如来像の前で舌嚙み切って死んだ尼僧があった。...その仏たちは、一様に何の表情を示していなかった。
宗教とか仏像といったものは救いのためにあるはずが、「私」の目にはことごとく残忍な表情をたたえた存在に映っている。主人公の「私」が仏像を通じて見ているものは底知れぬ虚無とか不条理といったものである。
仏像も怖いが、僧衣に身を包んで「今まさに」正式に仏門に入ろうとする青年が、仏像を前に全く信仰心を抱くことなく、ひたすら神仏なるものへの不信を訴える描写も怖い。
「俺はこれから決闘に行く」と私は彼を見上げながら、考えた。
「それもあなたには見通しているのだろう。今これから髪棄山にでかけて愚劣な行為にふける、そんな俺の運命も、みんな計算し、指導しているのだろう。俺がそれを中止するにしろ、断行するにしろ、みんなあなたはそれを前もって決めてしまったのだろう」
「さまざまな執念があなたの前にささげられた。死んだ尼僧や親族を失った老若男女の涙が何万石となくささげられた。俺もこうしてあなたの前に座っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。あなたは人間でもない、神でもない、気味のわるい“その物”なのだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。
俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少し経てば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それもあなたは黙って見ているのだ。
...仕方がない、その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことに決めた」
「俺は日に何回あなたの名を称えるが、あなたに誓うことはできない。しかしもし俺が生きて行けたなら、無意識のうちにでも、“その物”であるあなたをかならず想い出すにちがいない」
主人公は境遇だけ見れば穴山などよりよほど恵まれている。万事適当にやりすごせば、食っていくに困らない地位は得られたはずなのに、なぜわざわざ陰惨な運命にはまりこんだか詳しいことは結局よくわからない。
時代的には満州事変などキナ臭い背景から、人間がムダに好戦的になっていたという説明もできるが、それだけではおさまらない何かがある。
作品の最初に、その後30代くらいになった「私」が酒場で人文学者と口論するシーンがある。穴山との決闘自体がどうなったかは分からないが、少なくとも「私」が命を落とすことはなかったらしい。その後「私」は、どうやら仏門とは縁を切って酒と文筆で命をつなぐ浮草のような生活をしている。どこか自分とイヤなところが似ている人間と感応し合っては、ケンカをして憂さ晴らしをするような行状は改まっていない。
何が何だかよく分からない作品ではある。
が、たまにふと、人間に起きることはじつはほとんど前もって決まっていて、自分の意思で決められることなど一握りほどもないのではないか、という不気味な感覚にとらわれるとき、不思議とこの「異形の者」を思い出す。
「...その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことに決めた」という主人公の独白が強烈な脳内リフレインとして残っているのである。