ねずみのすもう

精神科医のねずみ

春なのに

コロナである。本来なら花見の人だかりができているはずのこの頃、川の土手の桜並木は閑散としている。私は昨年末、何の気なしにこんなツイートを放ったが、まさか数か月後に世界レベルでウィルスによる大混乱が起きようとは予想していなかった。

私も医療従事者のはしくれ(謙遜などではなく本当に端くれ)であり、たぶん世間のひとよりは感染リスクは高い。

高齢者が死亡しやすい傾向があるとはいえ、私自身の身に万が一が起こらない保証はない。生命を全うできたとしても、世界的な不況が長く続いた場合、即戦争とはならないにせよこれまでの国際秩序は破れるだろう。

人類史の転換はわりと急激に起こる。ローカリズム国家主義への回帰から独裁政権が生まれ、いきなり不逞分子として捕まるかもしれない。(アメリカドラマの「フィアー・ザ・ウォーキングデッド」で、「政府の車に連れていかれた者は帰ってこない」というセリフがあった)

他国がいきなり侵略してきてシベリアに拉致し去られるかもしれない。

コロナが格差解消のガラガラポンになると期待する向きもあるようだが、おそらく真っ先に打撃を受けるのは地盤の弱い中小企業などであり、格差が広まるとかえって社会不安が惹起される。ポエニ戦争後の古代ローマみたいな「内乱の一世紀」にならないだろうか。

一人で考え込んでいると、どんどん考えが妄想的になってくる。

出勤するとき、マスクをしないものは人にあらず、咳・くしゃみをする奴は不穏分子みたいな無言の圧力をひしひしと感じる。世界の空気がここまでいっぺんに変わってしまったのも衝撃だった。人間なんて案外「非常事態だから」と枕詞がつけば、どんな変化でも受け入れてしまうものなのではないか。

私自身はもう十分生きたような気もするが、さすがに子供が独り立ちするまで待ってくれんかいな、とも思う。手洗い、うがい、患者への衛生管理の周知くらいしかできることがないのももどかしい。

幸い欧米に比べて日本が意外に粘っているのも事実なようで、究極の楽観論をいえば、日本が「一人勝ち」をし、失われた30年を帳消しにする躍進をこれから遂げるのかもしれない。中井久夫の説く、「disguised blessing」か。物心ついたころはもうバブルも弾けてたし、なんかシケたムードの日本しか知らない身としては、ぜひそうなって欲しいものである。だいたいオレが医学部行かなきゃならなかったのも、とどのつまりは経済が不調だからなんだよ。そろそろどうにかなってくれ。もうなんだかよくわかんチー。

 

ツイッターも連日だれかが何かに怒っている修羅の世界になりつつある。緊急事態宣言の後、感傷的になり元彼女の携帯に過去の懺悔ポエムを送った男がいた。カトリックの告解か。政府の手ぬるい対応を批判をした直後、鬼気迫る情勢下の東京で一人風俗に直行した野党議員がいた。これがオレのクラスターだ!お後がよろしいようで。こういうとき、一致団結するより先にまずみっともない部分をあらわしてしまうのが人間の悲哀である。歴史の一ページとして、1000年にわたり語り継がれるだろう。

一応医療従事者と名乗っている以上、ウィルスについて変なこと言うと炎上しそうだから、どうでもいいことしか呟いていない。日々の業務とムダな心労で気力がわかない。今年は花見もしなかった。春なのに。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

「ゴンドラの唄」(大正4年)

100年前にスペイン風邪が猖獗を極めたとき、劇作家の島村抱月が病死し、恋愛関係にあった松井須磨子も後を追って自死した。松井の歌う「ゴンドラの唄」は図らずも人類史的なパンデミックに際した人間の諦念を歌っているようにも思える。このところ、気力の尽きた身としては、夜風呂に入りながらボソボソとこの歌を歌っている。黒澤明の「生きる」かよ。やっぱまだ死にたくないチー