ねずみのすもう

精神科医のねずみ

オイディプス王

精神科医がネット上で期待されている役割のひとつは、ホロっとくるような「落としどころ」のある、自己啓発的な話をすることだろうと思う。

 

しかし、この手の話は語り手がある程度美男美女でないと説得力がなくなったり胡散臭くなってしまうきらいがある。あるいは、酸いも甘いも噛みわけた苦労人としての来歴があり、存在自体に「なにやら後光がさしている」必要がある。いずれにしてもわたしのガラではない。

 

いきなり話が飛ぶが、古代ギリシャの悲劇詩人・ソフォクレスの代表作にテバイ王家の骨肉の争いの序章を描いた「オイディプス王」というのがある。

 

序盤では威風堂々とした若きテバイ王・オイディプスが、「出生の秘密」が明らかになったことにより、終盤では打ちひしがれて自ら両目を潰し、痛ましい姿を一気にさらけ出すという話である。

 

オイディプスが、縊死した王妃イオカステの亡骸から髪飾りを抜き出して自らの目に突き刺す描写は読んでいてうすら寒くなる。

(直接の描写はなく、王妃の縊死とオイディプスのすさまじい自傷は「報告者」によって語られる)

 

王さまは、イオカステさまが着物に付けておいでになりました金細工の留め金を引き抜かれ、それを高々と振りかざされました。

そして、「この両目よ、お前たちは、獣にも劣ることをしてしまった不幸なわしを見てくれるな。見てはならぬ人を見ていたくせに、知りたい人を見分けることもできなったお前たちなど、これからはもう、闇の中にいろ。」と言うが早いか、そのご自分の両目を、留め金でこうしてお突きになられました。

 

それも、一度ならず二度三度と、そんな嘆かわしい言葉を叫ばれながら、留め金で両目をお突きになられたのでございます。

 

目の玉からいちどきに噴き出してきた血は、あごひげを濡らしましたが、その物凄さは、もう血のかたまりとなってしたたる雫などというものではなく、血の雹が黒い豪雨となって降ってくるようでございました。

 

...今日この日には、悲嘆、破滅、死、恥辱といった、忌まわしい名前の付いたありとあらゆる災いで、ここにないものは何ひとつございません!

 

いや、まだこのように叫んでおいでになることでしょう。「誰か、戸を開いて、カドモスの民すべての前で、このわしをさらし者にしてくれ。この父親殺しの男を、この母親の ・・・。」 

 

ああ、もうこれ以上、わたくしには、神を穢すような言葉は言えませぬ!

 

人間の本質的な脆さ、一皮むけば地獄に転ずるこの世の恐ろしさを描いた作品が、2500年前にすでに戯曲化されていたのは驚きである。近世日本の船乗りは、海の恐ろしさを「板子一枚下は地獄」と端的に表現したという。どんなに権勢を誇った王でも過去の事跡が明らかになった瞬間あぼーんであり、屈強な海の男も舟板が抜けたが最後、海の藻屑である。

しかし見方を変えれば、こうした悲惨さ、グロテスクさこそ人間を人間たらしめる母体である。そもそもこの娑婆の世界は地獄みたいなもんであり、諸行無常、我が世の春を謳歌するひとも明日の日は確かならず、一転して地獄の業火に包まれ得る、という諦念がかえって人の心を軽くすることもあるのではないか。

 

しょうもないブラックネタを描いたり、人間の自意識についての陰鬱な文章を書くときわたしの筆は生き生きとする。イケてることを言うのはイケてる人に任せて、わたしは開かずの間から夜な夜な聞こえる念仏みたいな不気味な文章をこれからも書き続けたいと思う。