ねずみのすもう

精神科医のねずみ

「異域の人」

自分は残りの生涯でどれくらいのことを成し遂げられるのだろう、とか考えてしまう。

 

医者のはしくれをやっていて、家庭も持って30半ばのいい大人である。このポジションを維持するだけでも大変なことであり、それ以上を望むのはおこがましいというべきかもしれない。

 

が、そもそも今のポジションは18歳時点で「医学部に入学した」ことにかなりの部分支えられており、その後の人生がなんだかハリボテみたく感じられてしまうことがある。もうちょっと何かしたいと思うが何をどうすればいいのか分からない。

 

実際、歴史上「功成り名遂げた」人物の一生ってどんな感じだったんだろう。思い出すのが、井上靖(1907~1991)の「異域の人」という短編である。

(井上靖楼蘭」(新潮文庫)に収録)

 

 

世界史を履修した人なら覚えているかもしれない。後漢の班超(32-102)の生涯を描いた短編である。けっこう印象的な作品だったので、これを読んでいたのが20歳の秋、細菌学講義の合間だったことまで鮮明に覚えている。

 

漢の時代、匈奴との戦いの要となる西域(中央アジアの砂漠地帯)の平定は一大事業だったが、そこに散在するイラン系のオアシス国家はたびたび叛乱を起こして王室は手を焼いていた。

42歳にして抜擢された班超が、30年かけて西域を平定する様子を描いた歴史短編である。

 

井上靖の歴史ものは、漢文の引用が多い独特の文体なので好き嫌いが分かれると思う。班超という人は、歴史の教科書に出てくるくらいの有名人でありながら、実際に西域平定の武将として名が出てくる40歳頃までの事績がほとんどわかっていないという。

 

班超は西域に入ると武人としてめきめき頭角をあらわし、侵入してきた匈奴の部隊と戦ったりして、オアシス諸国を平定してゆく。

 

平定は困難をきわめた。匈奴妨害工作と戦いながら、離合集散をくり返すオアシス国家を束ねなければならない。砂漠の気象条件も過酷である。

 

部下が逃げたり、個人的に信頼関係にあったはずの現地領主がいきなり裏切って攻撃してくるなど数々のトラブルに見舞われながら、気づけば老人になっていた。現地に骨を埋める覚悟をして、妻子はとうに離別して家庭的にも孤独である。

 

長年の功績が王室に認められ、ついに現地のトップ官僚である西域都護に任命されるが、その直後に兄・班固がなんと故国で獄死したと知る。

(ちなみに兄の班固も正史「漢書」を編集した人)

西域都護となった班超に、洛陽からの使者が最初にもたらしたものは、兄班固の獄死であった。

 

一代の儒者として知られ、また晩年には大将軍トウ憲の参議として匈奴討伐に参加した班固が、私怨を受けて獄に下り、獄中に死んだという報せは、班超を暗然とさせた。

 

異域にあって干戈忽忙の中に年を重ねた班超の頬を、初めて長く相見なかった肉親のための涙がこぼれ落ちた。母も妻も数年前、すでに物故していた。

 

ここから、功成り名遂げた男の寂しい晩年の記述が続く。

肉親や親しかった同僚・部下も相次いで死んでゆく。悲しみを振り払うかのように戦いを続けるが、いよいよ70歳を超え、持病も悪化して死期を悟った班超は帰国を願い出る。

 

...願はくは生きながらにして玉門関に入らんことを。

沙漠に命を延ぶるを以て今に至って三十年。骨肉相離して復た相しらず。

ともに相したがふ所の人みな既に物故せり。超最もながらえて今七十に到らんとし、衰老病を蒙りて頭髪黒きなし。....

 

 

班超はその長文の上申書に書いたごとく、異域にとどまること三十年、七十一歳になっていた。

 

帰国の許しを得た班超は30年ぶりに故国に帰った。

 

皇帝はすでに代替わりして、班超からみれば孫のような年齢の若い天子になっている。首都・洛陽もすっかり様変わりして、異民族の商人が盛んに出入りし、胡風(西域風のファッション)が流行っている。西域が平定され通商が活発になったからだが、当の功労者である班超自身がその事実をはじめて知って驚いているのが皮肉である。

 

路行く人の服装はいずれも目を奪うばかり華美であった。班超は于闐国玉河の産する玉をもって腕を飾る婦人たちを見た。市街は殷盛をきわめ、胡国の産物をひさぐ店が軒を連ねていた。

 

班超は異域における己が労苦が、不思議な形をとって洛陽の町に溢れているのを見た。班超はなおも街区を歩いた。

 

さて、30年ぶりに故国に帰った班超を、街の人々はどう迎えたか。

 

「胡人!」

幼童の言葉で班超は足を留めた。彼は胡人という言葉で自分が呼ばれたのを知った。三十年の異域の生活は彼を一人の胡人たらしめていた。漠地の黄塵は彼の皮膚と眼の色を変え、孤独の歳月は彼から漢人固有のおっとりとした表情を奪っていた。...

 

「胡人!」

路上に遊ぶ幼童の群れがまた彼を呼ぶのを耳にした。

 

 

 「胡人!」のところで、なんかズギューンときてしまい、動けなくなった。

班超は、自分でも気づかないうちに長年戦っていた「胡人」とほとんど同化していた。西域を平定した班超の名は天下に轟いていたはずだが、子どもたちはまさかそこを歩いている深い皺の爺さんが当人だとは思っていないのである。

そうか、胡人、か...。

 

翌日、班超は病状あらたまって卒した。洛陽に入ってから十数日目である。
朝廷は深くその死を悼んで、使者を立てて厚く祭祀した。

 

ヒーローとして故国に迎えられ大団円、というわけではない。祖国を留守にした三十年の空白を埋める暇もなく、自分の風貌がもはや漢人ですらなくなっている事実を子供に笑われながらあっけなく死ぬ。当の班超自身は、病の悪化もあって薄れゆく意識のなかで幸福でも不幸そうでもない。

 

その死後、後任者の力量が伴わなかったこともあって西域は乱れ始めた。

 

班超の没後、西域は再び乱れた。都護任尚は人心を失い、西域の諸国はこぞって叛いて彼を攻撃した。段喜替わって都護となったが、その後も戦火絶えなかった。

 

班超が長年かけて築いた平定事業があっという間に崩壊する様を描いた、淡々とした「締めの文章」までが秀逸である。

 

砂漠のイメージと相まって、乾いた抒情とでもいうべきか、全体的に暑苦しい夏の夜に見た哀しい夢みたいな雰囲気がただよう。なんか人間が生涯をかけた仕事って、幸不幸の概念を超えたところにあるのかなあと不思議な感想をもたらす作品であった。

 

西域の道遠く且つ険阻なること、胡族叛服常ならぬこと、西域派遣軍の費用莫大なること――――

三つの理由に依って、安帝の永初元年六月、漢は西域を放棄し、都護、屯田の官吏、兵士を召喚した。再び玉門関は固く閉ざされた。班超没してから五年であった。