ねずみのすもう

精神科医のねずみ

人文学に関する雑感

以前のエントリーにも書いた気がするが、もともと英語と日本史・世界史など文系科目が得意だった。人間のタイプとしても、エヴィデンス主義の現代の医者というより人文学者寄りだと思う。医学部に進んでも、「なんでお前、文系に行かなかったんだ?」と訝しがられたこと再三である。

理由としては

・いくら文系が好きといっても、人文系のアカデミアのポストはすでに先達で埋まっており何のコネもない私が食えるわけもないこと

・実家もそこまで太くはないこと

・医学部卒業しつつ「オレじつは人文系が得意だったんです」とか言えばなんか人間として厚みが出せるんじゃないか、という下心があったから

 

である。ウザいやつである。

もちろん現実はそこまで甘くなかったのであるが、他方、人文系アカデミズムの世界というもの自体に、なにか思想の硬直性を感じ、中に入ってしまっては自由な研究などできなくなる予感があった。逆説的だが「自由な人文学徒」として振る舞うためにも医者になったほうがいいのではないか、と考えたのである。

 

人文学について何の意味があるのか、所詮は趣味じゃないか、不要だ、みたいな意見があるが、人文学そのものは社会にとって必要不可欠なものだと思う。

 

人文学というものの定義そのものが難しいが、西欧の人文学の場合、神学に凝り固まって学芸の自由を認めなかった中世カトリック教会へのアンチテーゼとして発展した経緯がある。ジョヴァンニ・ボッカッチョの「デカメロン」の艶笑譚にみるように、人間本来の滑稽さをも素直に見つめ、まあ固いことは言わずに下世話な話をしようぜ的な...

人文学には、社会が何か硬直した価値観に支配されようとしているとき、それを相対化・戯画化してギャグを飛ばすような痛快さがあったはずなのである。今では荘厳な雰囲気で崇められているルネサンスの知識人や芸術家は、今でいえば意外に炎上系のツイッタラーみたいな人たちだったのかもしれない。

 

昨今の情勢をみるに、人文学がオワコンになったというより、人文学を掲げている大学の偉い先生(のうちでもメディアによく出る)の言っていることがコンテンツとして痛快さがなくなった、ということだと思う。

実際は学内のゴタゴタや学生の就労支援、保護者のクレーム対応など見えない苦労もあるだろうに、恵まれた出自で好きなことを追求しつつ文化貴族みたいなポジションからの「反体制しぐさ」イメージを与えてしまっているのが甚だ不味い。

一方、SNSでは在野の人文学者...おそらく政治的な理由で従来アカデミアの世界では冷遇された...の活躍が目立つようになってきた。彼らは適度に親しみやすいキャラを作りながら自らの意見を発信する手法が巧みである。

 

ここまで書いてきて思ったのが、キーワードは「親しみやすさ」ではないだろうか。親しみやすい人文学はこれからむしろ栄え、サブカルチャーにも影響を与え、you tuberのネタにもなり、ネットを通じてどんどん拡散してゆくだろう。かつて活版印刷の普及から俗語訳の聖書が広まったように。そんなものは最早学問ではないと怒るか、広義の人文学の勝利だと言祝ぐか。ちょっと前までは、大学の先生方頑張ってくれ、と思っていたが、最近はこういうのも時代の流れだなあと感じる。こうした昨今の風潮は寂しく、しかし同時に頼もしく思う。