子供のころ、妖怪だの幽霊だのの話が好きで、図書館からその手の本を借りてよく読みふけっていた。
今思い出してもよくできていると感心するのが、小泉八雲(1850~1904 ラフカディオ・ハーン)の「怪談」である。
ハーンは明治時代の日本に帰化した「お雇い外国人」の一人で、本人はアイルランドとギリシャのハーフである。
高等学校で英語を教授しながら日本の古い怪奇譚を収集、「耳なし芳一」「むじな」などを遺したが、私が個人的に好きなのは「和解(The Reconciliation)」と題する一編である。
むかし、京にひとりの侍がいた。
あるとき主家が没落して生活が困窮。すでに妻がいたが家計を支えられなくなった。
男は新たな仕事のために妻を捨て、名家の娘と再婚。そのまま遠国に出張する。
しかし二度目の妻は性格のきつい女性で、夫婦生活は破綻してしまった。前妻を捨てたことを後悔した男は、金を貯め任期が切れると京にすごすごと帰った。
男が京にたどりついたのはすでに9月10日の深夜であった。
前の妻はとっくによそで再婚して、家は荒れ果てているだろうと思って帰ってみると、なんと昔住んでいた家は元のままで、明かりがともっている。
戸を開けてみると、多少やつれてはいるものの紛れもなく前妻が機織りをしている。
男の帰りを信じてひたすら待ってくれていた妻に、男はこれまでの自分勝手さを詫びる。前妻は「帰ってきてくれただけで嬉しい」と笑って許す。
その晩、男は「二度とお前を離さない!」と熱く語りながら妻を抱き、いつしか眠る。
翌朝起きてみると、「根太がむき出しになった」廃屋に男は横になっていた。
男は昨夜のは夢だったのかとたじろぐが、たしかに妻は隣で寝ている。
とりあえず「ねぇ、お前...」といって顔をのぞきこんで絶叫。
長い髪の毛だけ残した女の白骨死体に経帷子が着せられていた。
「捨てた妻のところに戻って一夜明けてみたら」シリーズの元ネタは上田秋成の「雨月物語」および平安の「今昔物語」らしい。
雨月物語バージョン(「浅茅が宿」)では、隣に白骨死体は寝ておらず、「妻の辞世の和歌」が書かれた板だけが地に刺さっているという、なんだか抒情的な雰囲気で締めくくられている。
一方ハーンの語る「隣に死体が寝ていた」バージョンは「今昔物語」版に忠実な描写であり、感動の再開から一転、死というもののグロテスクな一面を強調した描写になっている。
おそらく、似たような説話は古くから語り伝えられていて、ラストの描写の違いは「雨月物語」「今昔物語」それぞれの編者の世界観の違いだろう。
ハーンにしてみれば、和歌を引っ張り出してリリックに締めるより、人間の業や死のリアルを前面に出した「今昔」のオチの方に説得力を感じたようである。複雑だった彼自身の生い立ちと考え合わせるといろいろ興味深い。
ところで、話にはまだちょっとだけ続きがあり、後日談として、「男が京に縁もゆかりもない旅人のふりをして、付近の住人に話しかける」くだりが出てくる。
昔自分が住んでいた家への道をそれとなく尋ねるのである。
「あの家にはどなたもいらっしゃいません。
元は、むかし都を去った、あるお侍の奥様のものでした。
そのお侍は、離れられる前に、他の女を迎えるために奥様を離縁されたのです。
それで奥様は、非常に苦しまれて、病気になられました。京都に身寄りもなく、だれも世話をする人がありませんでした。
それでその年の秋―9月の10日に亡くなられたのです」
一抹の寂しさと不気味な余韻を残しつつ、話はここで終わっている。
これを読んだ当時、話のスジとしてはよくできていると感心しながらも、結果として妻を無残な死に至らしめながら、あまり悼むそぶりもなく終始「気味悪がっている」男の態度がちょっと引っかかったのを覚えている。
また、死体に「経帷子が着せられていた」のは、近隣住民が妻の死を知ってそれなりの弔いをしていたことを意味する。ただ、帷子を着せただけで白骨になるまで家に放置する理由がよくわからない。なぜ埋葬しなかったのか。ちょっとみんな冷たすぎじゃない?
しかしいま考えると、古い時代には現代に比べて「死」というものが驚くほどありふれていて、人々は弔いの感情を長くは抱いていられなかったのではないか。
まだ若かった妻がいきなり亡くなってしまったのは、夫に捨てられた煩悶というより何かの感染症ではないか。一帯に大量の死者が出てしまい、埋葬が追いつかなかったのではないか、という想像もできる。
(そもそも、近隣住民が完全に入れ替わってでもいなければ、男は「旅人のふりをして」ものを訊くことなどできない。住民が入れ替わるような何らかのショックがあった可能性が高い)
どうも子供だった私は、「死」なるものを、すべてが演出されつくした後にやってくる何か感動的なものだと見なしていたようである。
これは医療が発達したことで死が遠ざけられ、かえってその実態がよくわからなくなった現代特有の感覚なのだろう。
案外いきなり簡単に人は死ぬし、死なないまでも死や感染の恐怖に晒される。
もちろん崇高な死もあるが、生きている人々に余裕がないと、悼むのもそこそこに葬儀のやり方とか財産の処分が問題になるなど、きわめて「物質的」な面もある。このあたりは医療従事者や、複雑な背景をもったご遺族などが嫌というほど痛感しているはずである。
今回のコロナ騒ぎで、社会に充満した禍々しい雰囲気にどこか既視感があったのは、子どもの頃読みふけった昔話の中に同じような「死の香り」を疑似的に嗅いでいたからかもしれない。
文脈によっては「崇高さ」にも「無残」にも通じ、また往々にしてそれを取り巻く人間の業をも浮き彫りにする。つぶさに見れば、きわめて即物性の強い何か...。
コロナ後の展望を考えると暗澹たる気持ちになってしまうが、今後の社会も経済も、死の淵に沈んでしまわないことを願うしかない。
ハーンの物語の中では、健気で薄幸な若妻はいたましい骸になってしまったが、なんというか、わたしたちの生きる社会が作中の「亡霊との一夜」みたいな夢幻になってはならないと思うのである。
「いつ、京都にお帰りになられまして?こんな暗い部屋をいくつもお通りになって、よくわたしのところがお分かりになりましたわね...?」
歳月は彼女を変えていなかった。今なお、あの甘い思い出の中にあったように若く美しかった。
..「いや、七生かけてもだ。お前さえいやでなければ、いついつまでも一緒に暮らそうと思って帰ってきたのだ。もう二度と我々を引き離すものはない、今では金も友人もある。貧乏なんか恐れる必要はないのだ」